「浅香光代」の版間の差分

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[[東京府]][[東京市]][[神田区]](現:[[東京都]][[千代田区]][[神田 (千代田区)|神田]])出身。[[身長]]163.5cm、[[体重]]55kg。愛称は「'''ミッチー'''」。内縁の[[夫]]は、[[コメディアン]]の[[世志凡太]]<!-- 夕刊フジ連載 自伝浅香光代 2010年5月〜6月掲載にも記載あり -->。
 
'''女剣劇界の中心人物'''とされ、戦前の[[剣劇芝居]]では[[不二洋子]]、[[大江美智子 (2代目)|大江美智子]]らが看板役を務める「[[女剣劇]]」は[[1936年]](昭和11年)頃からブーム化するほど人気を博し官警の監視取締りを経た公認の「健全な」剣劇芝居では、劇中に演出する、太ももなどの素肌をちらりと見せ色気を醸し出すシーンを作り、後年に「[[チラリズム]]」と称される概念を生み出した。戦後に舞台演劇や演芸が以前の勢いを取り戻すなか、女剣劇人気は進化した演出を伴って復活し若手の一人だった浅香光代は新らたな女剣劇スターとして大人気となった。</br />
[[1937年]](昭和12年)映画界で活躍していた[[浅香新八郎]]、[[森静子]]らの舞台劇団[[新生国民座]]の門戸を叩いた時は9歳、強いられた厳しい[[芸妓|芸者]]見習い([[半玉]])修行を辞し、憧れの女優業を目指しての行動だったと云う。入門を許され稽古に入ると演技指導の吸収力は抜群で、早咲な才能と将来の広い可能性を認められると座長から芸名「浅香光代」を贈られた。[[1944年]](昭和19年)に座長浅香新八郎が急逝し、森静子の意向から新生国民座は解散した。突然のことで元座員達は路頭に迷い、戦時下の制約事情とそれぞれが持つ俳優鑑札から、元の劇団から再興同然の組織で新劇団旗揚げを図る以外に活路は無く、元座員達は亡くなった座長から覚えめでたい存在だった若年女優を担ぎ上げて劇団名を「浅香光代一座」として発足させた<ref group="注">資料によって浅香光代一座結団時期と新生国民座活動期間について異なった表記がみられる。</ref>。新劇団は以前からのプログラム演目とその中堅看板役達を引き継いだものの、知名度の無い若手女優の名を冠する劇団の人気は結団暫くは低迷していた。浅香光代は祭り上げられた座長地位に甘んじることなく旺盛な向上心から演出方法や演技指導を周囲ベテランの協力で身に付けて終戦を迎え一変した環境のなか新たな試みを求められるなか、戦局の悪化で曖昧な規制で弾圧の対象されていた女剣劇の復活に携わるとこの若い女座長の名はたちまち人々の口々話題にのぼった。浅香光代一座はやがて[[浅草]]や[[新宿]]などの芝居小屋で専属など長期興行を張る人気劇団、中堅へ成長した。一座にはのち[[てんぷくトリオ]]で有名になる[[戸塚睦夫]]と[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]などが在籍<ref>笑伝・三波伸介―びっくりしたなあ、もう (西条昇著・風塵社・2000年1月) ISBN 4938733765</ref>、その幕間には[[玉川良一]]らが繋いだ。