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==生涯==
[[ブライトン]]出身。父親は[[避暑地]]に勤める[[指揮者]](または[[バンドリーダマスター]])であった。[[ロンドン]]に上京して[[王立音楽大学]]に進み、[[1899年]]から[[1903年]]まで[[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード]]の薫陶を受ける。[[ヴィオラ]]奏者としてイギリス弦楽四重奏団に加わったほか、[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム四重奏団]]の補助要員も務めた。また[[指揮者]]としても活動し、[[エリザベス・クーリッジ|エリザベス・クーリッジ夫人]]の援助のもとに[[作曲]]に没頭できるようになるまでは、[[ヘンリー・ウッド]]の代理を務めることもあった。特定の教育機関に属さず、フリーランスの音楽教師としても活躍し、とりわけ高弟[[ベンジャミン・ブリテン]]が著名である(青年時代のブリテンに、[[ウィーン]]往きと[[アルバン・ベルク]]の許での[[留学]]を薦めたのがブリッジであったとも言われる)。イーストボーンにて他界。
 
ブリテンは、恩師の作品を擁護すべく尽力し、「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」([[1937年]])に、ブリッジの「弦楽四重奏のための3つの牧歌」([[1906年]])から第2曲を用いたり、恩師のその他の作品を上演したりした。とりわけ、[[ロストロポーヴィチ]]との共演による、「[[チェロ・ソナタ]] ニ短調」([[1913年]]~[[1917年|17年]])の録音は有名である。