「ローマ帝国」の版間の差分

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=== 帝政の開始 ===
ローマ帝国の起源は、[[紀元前8世紀]]中ごろに[[イタリア半島]]を南下した[[ラテン人]]の一派がティベリス川(現:[[テヴェレ川]])のほとりに形成した[[都市国家]]ローマである([[王政ローマ]])。当初は[[エトルリア人]]などの王を擁いていたローマは、[[紀元前509年]]に7代目の王であった[[タルクィニウス・スペルブス]]を追放して、貴族([[パトリキ]])による[[共和政]]を布いた。共和政下では2名の[[執政官|コンスル]]を国家の指導者としながらも、[[クァエストル]](財務官など公職経験者から成る[[元老院 (ローマ)|元老院]]が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた([[共和政ローマ]])。やがて平民([[プレブス]])の力が増大し、[[紀元前4世紀]]から[[紀元前3世紀]]にかけて身分闘争が起きたが、[[十二表法]]や[[リキニウス・セクスティウス法]]の制定により対立は緩和されていき、[[紀元前287年]]の[[ホルテンシウス法]]制定によって身分闘争には終止符が打たれた。
 
都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする[[重装歩兵]]部隊を中核とした市民軍で[[紀元前272年]]にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。[[紀元前1世紀]]には[[ローマ市民権]]を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱([[同盟市戦争]])を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
 
しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたる[[ポエニ戦争]]の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「[[内乱の一世紀]]」と呼ばれた時代になると[[ガイウス・マリウス|マリウス]]など一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。こうした中で、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]及び[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]は絶対的な権限を有する[[終身独裁官]]に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。[[紀元前44年]]にカエサルが暗殺された後、[[共和主義者]]の打倒で協力した[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]と[[マルクス・アントニウス]]が覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが[[紀元前27年]]に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院は[[プリンケプス]](元首としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]](尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
 
以降、帝政初期の[[ユリウス・クラウディウス朝]]の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には[[共和制]]を尊重して[[プリンケプス]](元首としてふるまった。これを'''[[プリンキパトゥス]]'''(元首政と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
* 「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス尊厳なるもの]]」と「[[カエサル (称号)|カエサル]]」の称号。
* 「[[インペラトル]]」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)
* 「[[プリンケプス]]」(市民の中の第一人者の称号。本来は元老院において、最初に発言する第一人者の意味。
* 「[[執政官|執政官命令権]]」を持っており、最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
* 「[[プロコンスル|プロコンスル命令権]]」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。
* 「[[護民官|護民官職権]]」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
* 「[[最高神祇官]]」の職。多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。
これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の[[執政官]]や[[ケンソル]](監察官などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。例えばオクタウィウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなどたりし、官僚制と多数の文武官による専制体制が確立した[[オリエント]]的君主とは違った存在であった。
また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位さえも、ローマに征服された地域や民族の者がくことが可能であった。例えば、[[セウェルス朝]]創始者の[[セプティミウス・セウェルス]]帝は[[アフリカ属州]]出身であったし、[[五賢帝]]の一人である[[トラヤヌス]]帝は[[ヒスパニア・バエティカ|ヒスパニア属州]]出身であった<ref>アルベルト・アンジェラ著 ローマ帝国1万5千キロの旅 p.493 ISBN 978-4-309-22589-0</ref>。
 
=== ユリウス・クラウディウス朝と内乱期 ===