「称光天皇」の版間の差分

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朝廷では[[後小松天皇|後小松上皇]]が[[院政]]を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり<ref group="註">当時の公家の日記には「禁裏御不予」(天皇の病気)の記載が多く見られる。</ref>、[[嗣子]]に恵まれなかった。
 
応永29年([[1422年]])4)3月下旬(あるいは4月半ばから)以降、天皇は体調を崩し、6月になるとますます病気が進行した<ref>吉田・220 頁</ref><ref name="足利義持p168"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168</ref>。この時の病は10月に回復したが、このため後小松上皇は後継者の不在を心配し、足利義持とも何度も相談し、そして称光天皇の弟である[[小川宮]]を「儲君」(事実上の皇太子)とした<ref name="足利義持p168"/><ref>『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』</ref>。しかし、小川宮も称光天皇と同じように奇行が多く、応永30年([[1423年]])2月には小川宮が天皇の飼育しかわいがっていた[[ヒツジ]]をひどくほしがり、強引に譲り受けておきながら即座に撲殺するという事件を起こすなど、兄弟仲も悪かった<ref>吉田・221 頁</ref>。さらに天皇は若くまだ皇子に恵まれる可能性もあったので、この後継者指名はかえって上皇と天皇の関係を険悪にする事になった<ref name="足利義持p169"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.169</ref>。
 
応永32年([[1425年]])2月16日、小川宮は早世し、後継者は再び不在となった<ref name="足利義持p169"/><ref>吉田・220頁</ref>。さらに同年6月に称光天皇は上皇に対する反発から退位を企てるという行動に出ている<ref name="足利義持p169"/>。さら同年6月28日に天皇は内裏を出奔しようとしたため<ref group="註">天皇が琵琶法師を内裏に招いて平家物語を聞こうとしたのであるが、上皇が天皇の行為を前例がないと反対した事から始まり、天皇も上皇が仙洞で先例が無いことをたびたび行ない、下劣な身分を昇殿させていると反論し、「院中において先例なき題目(事柄)はことごとく停止せらるべきなり」と使者の[[万里小路時房]]を怒鳴りつけ、さらに「帝位についているが、一事も院(上皇)の御心に叶わず、ことに禁中が窮迫して致し方ない上は、在位に全く執心しません。国の事はしかるべき様に御計らい下さい。我が身においては、天皇の位を辞し申します」と書面を上皇に送付した。(『[[薩戒記]]』)</ref>、上皇の要請を受けた義持の仲介を受けて上皇と和睦しで慰留されている<ref name="足利義持p170pp170-171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、ppp.170-171</ref><ref>吉田・248 頁</ref>。天皇と上皇の確執を調停できるのは義持以外に存在しなった<ref>吉田・248 頁</ref>。
 
しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を[[持明院統]][[光厳天皇]]流で唯一の男児(他にも男児はいたが[[僧籍]]に入っていた)である[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王]]に求めていた<ref name="足利義持p177"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177</ref>。しかし、貞成は54歳の応永32([[1425年]])44月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、貞成は3か月後の閏6月3日貞成は出家せざるを得なくなってしまった<ref>吉田・249頁</ref><ref group="註">天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・[[大覚寺統]]関係者でのちに処罰された(『[[看聞日記]]』)</ref>。
7月、天皇は重病に倒れ、義持や[[中山定親]]らが慌てて参内するほどだったという<ref name="足利義持p171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171</ref>。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している<ref name="足利義持p172"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172</ref>。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった<ref name="足利義持p172"/>。この時は義持の説得で<ref name="足利義持p172"/>、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた<ref name="足利義持p173"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173</ref>。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた<ref name="足利義持p173"/>。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが<ref group="註">御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。</ref>、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した。この時の病気は邪気(風邪)だったという<ref name="足利義持p174"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174</ref>。
 
7月25日、天皇は重病に倒れ、義持や[[中山定親]]らが慌てて参内するほどだったという<ref name="足利義持p171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171</ref>。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している<ref name="足利義持p172"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172</ref>。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった<ref name="足利義持p172"/>。この時は義持の説得で<ref name="足利義持p172"/>、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた<ref name="足利義持p173"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173</ref>。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた<ref name="足利義持p173"/>。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが<ref group="註">御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。</ref>、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した<ref name="足利義持p174"/>。この時の病気は邪気(風邪)だったという<ref name="足利義持p174"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174</ref>。
しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を[[持明院統]]光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが[[僧籍]]に入っていた)である[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王]]に求めていた<ref name="足利義持p177"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177</ref>。しかし、貞成は54歳の応永32年([[1425年]])4月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、貞成は3か月後に出家せざるを得なくなってしまった<ref group="註">天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・[[大覚寺統]]関係者でのちに処罰された(『[[看聞日記]]』)</ref>。
 
天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で[[代始]][[改元]]が認められなかった(16。改元は16年目に実現するが、その3か月後に[[崩御]]する)した。また、[[後光厳天皇|後光厳]]流の断絶が確実となったことや皇嗣の未定は政情不安に直結し、[[後南朝]]勢力が皇位奪還への動きを見せ始めた<ref>吉田・248-249頁</ref>
 
正長元年([[1428年]])[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]、28歳で崩御した。死後、貞成の息子である彦仁王が上皇の[[猶子]]となって即位し、[[後花園天皇]]となった<ref>「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。
 
== 人物・逸話 ==
称光天皇は行状に問題が多く、後小松上皇や足利義持をたびたび悩ませたと伝わる。主なものでは、天皇は太刀や刀、弓の扱いを好んでそれをもて遊ぶ事に拘泥し、金の鞭で近臣や女官を打ち据えたため、その行状を聞いた義持が上皇に苦情を提言している<ref name="足利義持p167"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.167</ref><ref>『[[看聞日記]]』応永23年6月19日条</ref>。また、応永25年(1418年)7月に天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊したのを自分の子では無く他人貞成親王の子だと騒いだため、上皇が義持に密かに調査を依頼し、その結果義持より事実無根として処理されるなどしている<ref name="足利義持p168"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168</ref><ref>『[[看聞日記]]』応永25年7月14日条から19日条</ref>。いずれにせよ、男子に恵まれなかった天皇は後光厳流の断絶を重圧に感じていたらしく、それが父帝との確執に繋がっていった<ref>吉田・248-249頁</ref>。
 
== 系譜 ==
88行目:
* [[伊藤喜良]]『足利義持』(人物叢書)吉川弘文館、2008年 ISBN 978-4-642-05246-7
;史料
*[[吉田賢司]]『足利義持 塁葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2017年
* 『看聞日記』
* 『薩戒記』
 
==関連項目==
*[[足利義持]]
*[[後南朝]]
 
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