「称光天皇」の版間の差分
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朝廷では[[後小松天皇|後小松上皇]]が[[院政]]を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり<ref group="註">当時の公家の日記には「禁裏御不予」(天皇の病気)の記載が多く見られる。</ref>、[[嗣子]]に恵まれなかった。
応永29年([[1422年]]
応永32年([[1425年]])2月16日、小川宮は早世し、後継者は再び不在となった<ref name="足利義持p169"/><ref>吉田・220頁</ref>。さらに
しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を[[持明院統]][[光厳天皇]]流で唯一の男児(他にも男児はいたが[[僧籍]]に入っていた)である[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王]]に求めていた<ref name="足利義持p177"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177</ref>。しかし、貞成は54歳の
7月、天皇は重病に倒れ、義持や[[中山定親]]らが慌てて参内するほどだったという<ref name="足利義持p171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171</ref>。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している<ref name="足利義持p172"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172</ref>。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった<ref name="足利義持p172"/>。この時は義持の説得で<ref name="足利義持p172"/>、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた<ref name="足利義持p173"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173</ref>。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた<ref name="足利義持p173"/>。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが<ref group="註">御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。</ref>、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した。この時の病気は邪気(風邪)だったという<ref name="足利義持p174"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174</ref>。▼
▲7月25日、天皇は重病に倒れ、義持や[[中山定親]]らが慌てて参内するほどだったという<ref name="足利義持p171"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.171</ref>。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している<ref name="足利義持p172"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.172</ref>。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった<ref name="足利義持p172"/>。この時は義持の説得で<ref name="足利義持p172"/>、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた<ref name="足利義持p173"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.173</ref>。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた<ref name="足利義持p173"/>。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが<ref group="註">御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。</ref>、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した<ref name="足利義持p174"/>。この時の病気は邪気(風邪)だったという<ref name="足利義持p174"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.174</ref>。
▲しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を[[持明院統]]光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが[[僧籍]]に入っていた)である[[伏見宮家]]の[[伏見宮貞成親王]]に求めていた<ref name="足利義持p177"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.177</ref>。しかし、貞成は54歳の応永32年([[1425年]])4月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、貞成は3か月後に出家せざるを得なくなってしまった<ref group="註">天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・[[大覚寺統]]関係者でのちに処罰された(『[[看聞日記]]』)</ref>。
天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で[[代始]][[改元]]が認められなかった
正長元年([[1428年]])[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]、28歳で崩御した。死後、貞成の息子である彦仁王が上皇の[[猶子]]となって即位し、[[後花園天皇]]となった<ref>「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。
== 人物・逸話 ==
称光天皇は行状に問題が多く、後小松上皇や足利義持をたびたび悩ませたと伝わる。主なものでは、天皇は太刀や刀、弓の扱いを好んでそれをもて遊ぶ事に拘泥し、金の鞭で近臣や女官を打ち据えたため、その行状を聞いた義持が上皇に苦情を提言している<ref name="足利義持p167"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.167</ref><ref>『[[看聞日記]]』応永23年6月19日条</ref>。また、応永25年(1418年)7月に天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊したのを自分の子では無く
== 系譜 ==
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* [[伊藤喜良]]『足利義持』(人物叢書)吉川弘文館、2008年 ISBN 978-4-642-05246-7
;史料
*[[吉田賢司]]『足利義持 塁葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2017年
* 『看聞日記』
* 『薩戒記』
==関連項目==
*[[足利義持]]
*[[後南朝]]
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