「ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ」の版間の差分

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== 指揮者としての活動 ==
[[1970年代]]に指揮活動も本格的に開始、直接親交のあったショスタコーヴィチやプロコフィエフの管弦楽作品を西側に紹介するという意図があった。ことに冷戦時代において、西側では不明な点の多いショスタコーヴィチの演奏は需要があり、当時西側においては幻の作品であった『[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスクのマクベス夫人]]』の原典版を初めて紹介した。指揮者としてはヴィシネフスカヤと組むことが多く、ほかにも[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』、[[プッチーニ]]の『[[トスカ]]』など[[オペラ]]の指揮や録音も多い。チェリストとして世界トップの実績を残し、また多くの優秀な弟子を育てたためにレコード会社からも配慮され、本来なら分不相応ともいえる[[ベルリンフィル]]をレコーディングに起用したこともある。イギリスでは[[ロンドン交響楽団]]とのつながりが強く、同楽団と1991年「プロコフィエフ生誕100周年記念音楽祭」、1993年「ブリテン音楽祭」、1988年「ショスタコーヴィチ、炎の音楽」などのシリーズを催した。また、[[マキシム・ヴェンゲーロフ]](ヴァイオリン)や[[ハンナ・チャン]](チェロ)など若手演奏家をソリストに迎えての協奏曲の演奏や録音も多い。[[合唱指揮者]]としては、[[セルゲイ・ラフマニノフ]]の『[[徹夜祷 (ラフマニノフ)|徹夜禱]]』などの録音がある。
 
== ピアニストとしての活動 ==