「ゲオルギオス・パパドプロス」の版間の差分

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==独裁の崩壊と失脚==
[[1973年]][[11月17日]]に[[アテネ工科大学]]でパパドプロス独裁政権に反対する学生蜂起に武力鎮圧を命じ死者80人以上を出、独裁政権の基盤が揺たことで陸軍高級将校いだ。直後[[11月25日]]腹心で秘密警察の長官だった[[ディミトリス・イオニアデス]]がクーデターを起こし、パパドプロスへの反感が生まれ、名目的と失脚し自邸言え民政軟禁状態に置移行したことでクーデター当初の厳格な軍事独裁ら逸脱しと将校らに疑念を持たれ独裁政権の基盤が揺らいだ
。直後の[[11月25日]]に腹心で秘密警察の長官だった[[ディミトリス・イオニアデス]]がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚し自邸に軟禁状態に置かれた。
 
クーデター後に成立した[[フェドン・キジキス]]の軍事政権も、翌[[1974年]]に[[キプロス]]のクーデターに介入したことを切っ掛けに海軍・空軍が離反して崩壊。その後の民主化の過程でパパドプロスら軍事政権の指導者は起訴され、パパドプロスも反逆罪で[[死刑]]を宣告された。その後終身刑に減刑され、[[恩赦]]も拒否しながら1999年ガンにより獄中で死去した。
 
民主化後のギリシャで彼は独裁の象徴と見なされている。多くのギリシャ人はパパドプロスを近代ギリシャ史における汚点だと考えているが、支持者もおり政党(ΕΠΕΝ EPEN)を結成したが、現在この政党は解散している。またパパドプロスには[[アメリカ中央情報局|CIA]]とのつながりがあったと言われ、事実[[冷戦]]期の米ソの対立の中でギリシャの軍事政権は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の支援を受けていた。
 
==註==
<references />