「ノモンハン事件」の版間の差分

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2回目の会議は1940年3月5日よりモスクワで開催された。東郷とモロトフの間でソ連軍参謀本部が発行した20万分の1の地図により協議が進められ、6月9日に大筋合意できたため、9月から現地での測量による詳細な確定作業に入った。しかし目印に乏しい草原と砂丘ばかりの土地で、モスクワでの協議で国境線の目印とされたのが[[ノムンハーネイ・ブルド・オボー]]をはじめとする[[オボー]]であったが、土地に定着するものではないため、既に存在しないものも多く、国境線画定には大変な労力を要した<ref>『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.3148</ref>。この時もノモンハン以北の地区では、引き続きソ連・モンゴル側の姿勢は頑なで、特にモンゴル代表のスミルノフが「モンゴル兵の鮮血に依り彩られたこれ等砂丘は一歩なりとも譲らぬ。以後は日満委員らの立ち入りを禁ずる」と一方的に通告し、激怒した日本代表団が会議場から退出してしまったため、第1回の会議と同様に物別れに終わり、交渉は中断してしまった<ref>『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.3155</ref>。この現地調査の時に、満州国代表団の1人北川四郎は、ソ連側がバルガとハルハの旧境界線を極めて忠実に遵守していることに気が付いたが、ノモンハン戦末期であれば、ソ連軍は壊滅した第23師団を追って、満州国領内まで進撃することは十分であったのに、それを行っていなかったことに驚かされている<ref>『ノモンハン 元満州国外交官の証言』Kindle版 P.1977</ref>。
 
日本代表団は、ソ連側がノモンハン以北に強く拘っているのに対し、停戦前に日本軍が確保した南部のハンダガヤ~アルシャン地区については、日本軍の占領が既成事実化しており、さほど固執していないと判断し、中北部で譲歩する代わりに南部で埋め合わせることとした<ref>『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.3156</ref>。休止していた国境画定会議は、1941年4月の[[日ソ中立条約]]の締結により再開されることとなったが、条約締結によりソ連の姿勢もかなり軟化していた。これまでは未測量部分のあるソ連軍の20万分の1の地図にて国境画定作業を行ってきたが、より精密な関東軍の10万分の1の地図を使用することをソ連側は同意し、またモンゴル側による、国境線や屈折点の目印としてオボ―を利用するという主張に対しても、オボーは永久に定着するものではないため、日本側の主張により、オボーの代わりに石柱と標識目柱を設置し、国境線や屈折点の目印とすることとした。さらに、ナチス・ドイツがソ連に攻め込むと([[独ソ戦]])、ソ連は極東の国境画定に関わる余裕を失い、ほぼ日本側の主張に従い作業が進んでいった<ref>『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.3169</ref>。そして、ノモンハン以北は満州国外交部の調査通りに従来の国境線(停戦時のソ連軍の占領地とほぼ同じ)で、南方のハンダガヤ地区は停戦前に日本軍が確保した土地は満州国領土とする、満州国に有利な総合議定書が1941年10月15日にハルビンにおいて調印された<ref>『ノモンハン 元満州国外交官の証言』Kindle版 P.187</ref>。モンゴルはこの交渉により1,140m140km<sup>2</sup>を領土を失ったと悔やんでおり、ノモンハン戦を領土の争奪の視点から評価すると、日本側の勝利とする意見もある<ref>『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.3215</ref>。
 
=== 日本の事後処理 ===