「藤原房前」の版間の差分

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内臣への任官、長屋王の変への不参加、内臣の解任について追記
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== 経歴 ==
政治的力量は[[藤原不比等]]の息子達の間では随一であり、[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])には20代前半にして、[[大宝律令|律令]]施行後初めて[[巡察使]]となり、[[東海道]]の行政監察を行った。[[慶雲]]2年([[705年]])[[正六位|正六位下]]から二階昇進し、一歳年上の兄の[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]と同時に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。
 
[[和銅]]2年([[709年]])9月に東海・[[東山道|東山]]両道の巡察使に任ぜられ、再び地方の巡察任務を担当する。この巡察には関剗([[関所]])の検察が含まれていたが、同年3月にはしばしば反乱を起こしていた[[陸奥国|陸奥]]・[[越後国|越後]]両国の[[蝦夷]]に対して、東海・東山両道などから兵士を徴発して征討を行っており<ref>『続日本紀』和銅2年3月5日条</ref>、この巡察も[[蝦夷征討]]に関わる派遣であったらしい<ref name="k25">木本[2013: 25]</ref>。こういった特殊な巡察任務を任されていたことから、既にこの頃には政界に一定の存在感を示していたと見られる<ref name="k25" />。和銅4年([[711年]])再び武智麻呂と同時に昇進し、[[従五位|従五位上]]となる。その後は武智麻呂が先んじて昇進し、和銅8年([[715年]])正月に二人が同時に昇進した際には、武智麻呂が[[従四位|従四位上]]、房前は従四位下に叙せられている。
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しかし、[[元明天皇|元明]]朝末期から[[元正天皇|元正]]朝初期にかけての高官([[穂積親王]]・[[大伴安麻呂]]・[[石上麻呂]]・[[巨勢麻呂]])の[[崩御#薨去|薨去]]を受けて、[[霊亀]]3年([[717年]])に房前は和銅2年(709年)以来欠官となっていた[[参議]]に任ぜられ、武智麻呂に先んじて議政官に加えられる。[[右大臣]]・藤原不比等に次いで[[藤原氏]]として同時に二人が議政官に並ぶことになり、これは参議以上の[[議政官]]は各有力[[氏族]]から1名ずつという当時の[[慣習]]を破っての昇進でもあった。このため、この参議任官は右大臣であった父・不比等が、長兄ながら温良凡庸な武智麻呂ではなく、政治的力量に勝る房前を実質的な政治的後継者として明確化するために行われた<ref>野村忠夫『律令政治の諸様相』塙書房、1968年</ref>とすることが通説とされていた。その後これに対して以下の反論が行われている。
*不比等が将来に向けた家門の発展を期し、自身の生存中に子息を議政官に加えようとしたが、武智麻呂を[[位階]](従四位上)に相応しい[[中納言]]に加えると、[[藤原氏]]が複数の正官の議政官を出し他[[氏族]]との軋轢が懸念された。そのため、房前を位階(従四位下)に相応しく、正官の議政官ではない参議に任じた<ref>高島正人「中納言・参議の新置とその意義」『立正史学』50、1981年</ref>。
*位階の昇進や官職の補任から武智麻呂が[[嫡子]]であることは明確にされており、房前の参議任官は政治的能力が理由ではなく、[[継母]]かつ[[義母]]であった[[県犬養三千代]]の引級によるものである<ref>瀧浪貞子「参議論の再検討」『史林』69-5、1986年</ref>。
*不比等には自分の死後に嫡子である武智麻呂は自ずと議政官に列するとの考えがあった。しかし、一家一人の[[不文律]]から自分の死後に房前を議政官に加えることが困難と見て、房前を[[藤原北家]]として嫡流の[[藤原南家]]からの独立させたり、一族の[[中臣意美麻呂]]を中納言に登用するなどの事前工作を行った上で、非正官の議政官である参議に加えた<ref>木本[2013: 42]</ref>。
 
[[養老]]4年([[720年]])8月に[[太政官]]の首班であった父の藤原不比等が薨去。翌養老5年([[721年]])正月に武智麻呂・房前兄弟は[[従三位]]に昇進するが、武智麻呂は参議を経ずに[[中納言]]に任官し、太政官の席次では武智麻呂が上位となる。しかし、同年10月には[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で、右大臣・[[長屋王]]とともに一介の参議であった房前を召し入れて後事を託し<ref>『続日本紀』養老5年10月13日条</ref>、さらに房前を祖父・[[藤原鎌足|鎌足]]以来の[[内臣]]に任じて、[[皇太子]]・首皇子の[[後見]]役を託すなど、した。元明上皇が自非常の死後厚い信頼を受ていたる政権の安定見られ皇太子・首皇子への確実な皇嗣継承を図。なお当時はため内臣は正式な[[長屋王との協調相手として職]]位上も上位にあった長兄の武智麻呂なく敢えて房前を選んだ理由として[[元正天皇]]以下首皇子に唱えられている<ref>木本[[譲位2013: 77]]した時点で任を解かれたとする意見もある</ref>
*[[聖武天皇]](首皇子)のもとに長屋王を中心に[[藤原四兄弟]]が協力・支援するという、かつて不比等が描いて元明上皇・[[元正天皇]]とも合意していた政治体制構想を受け継ぐ房前と、あくまで藤原氏の独自政権を目指す武智麻呂の路線の違いがあった。元明上皇・元正天皇側としても、房前を内臣に任じることによって皇親側へ引き込み、武智麻呂と対抗させようとした<ref>瀧浪貞子「武智麻呂政権の成立」『古代文化』37-10、1985年</ref>。
*不比等亡き後の藤原氏を娘婿の房前に託そうとした県犬養三千代が元明上皇へ房前を推挙した。
 
[[神亀]]元年([[724年]])首親王の即位([[聖武天皇]])に伴い、武智麻呂と同時に[[正三位]]に昇叙される。[[天平]]元年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]が発生し、[[皇親]]勢力の巨頭であった[[左大臣]]・[[長屋王]]が[[自殺]]させられ、藤原四子政権が確立する。長屋王の変の首謀者については、①藤原四兄弟が協力して主導した<ref>野村忠夫『律令政治の諸様相』塙書房、1968年。中川収「藤原四子体制とその構造上の特質」『日本歴史』320号、1975年</ref>、②武智麻呂が主導し房前以下の兄弟3人が役割を分担した<ref>辻克美「武智麻呂と房前」『奈良史学』3号、1985年</ref>、③武智麻呂が主導し[[藤原宇合|宇合]]・[[藤原麻呂|麻呂]]兄弟が協力して房前は埒外に置かれていた<ref name="ts1985">瀧浪貞子「武智麻呂政権の成立」『古代文化』37巻10号、1985年</ref>、の諸説がある。いずれ房前が変参画しても、房前は[[六衛府]]の筆頭格であいなかった[[中衛府]]を[[近衛大将|大将]]して管轄する立場にありからは長屋王を糾問するにあたっその理由とし藤原宇合ら以下率いる六衛府の兵士が実際に動したにも関わらず、この政変での房前自身の活動記録が一切ない。さらには、変後に武智麻呂は[[大納言]]に昇進、麻呂は従三位に昇叙されてい一方で、房前は全く昇進に与ることもなかった
*妻・[[牟漏女王]]と義母・県犬養三千代との関係から、房前は長屋王排斥を図る武智麻呂と距離を置いた<ref>増尾伸一郎「〈君が手馴れの琴〉考」『史潮』新29、1991</ref>。
*内臣への就任や長屋王との政権運営の協力を通じて、房前は長屋王と互いに認め合う関係になっていたと想定される<ref>並木宏衛「長屋王伝承」『武蔵野女子大学紀要』9、1974年</ref>。武智麻呂ら他の四兄弟の決意を知っていたが、これまでの長屋王との交流から房前は積極的な行動が取れなかった<ref>大山誠一「藤原房前没後の北家と長屋王家木簡」『日本歴史』534、1992年</ref>。
*内臣として皇親側に立っていた房前は、武智麻呂-[[多治比県守]]-宇合のラインから除外されており<ref>渡辺久美、1975年</ref>、武智麻呂が房前を意図的に参画させなかった<ref name="ts1985" />。
いずれにしても、房前は[[六衛府]]の筆頭格であった[[中衛府]]を[[近衛大将|大将]]として管轄する立場にあり、長屋王を糾問するにあたって藤原宇合らが率いる六衛府の兵士が実際に出動したにも関わらず、この政変での房前自身の活動記録が一切ない。さらには、変後に武智麻呂は[[大納言]]に昇進、麻呂は従三位に昇叙される一方で、房前は全く昇進に与ることもなかった。いずれにしても、長屋王の変の結果、武智麻呂が不比等の後継者となることが明確になった。
 
同年9月に房前は[[中務省|中務卿]]を兼ねるが、これは長屋王の変代わって太政官を領導することになった武智麻呂が不比等房前の政治力を抑制するために、内臣から遷任させたも後継者する見方がある。さすがに元正上皇や県犬養三千代が顕在の状況で内臣を解任することはできず、令制で職掌明確類似している中務卿なっ任じが、房前というのである<ref>木本[2013: 149]</ref>。ただし、内臣は元正天皇が首皇子に[藤原四兄弟[譲位]]の一人とて他の兄弟とた時点で任を解かれたする意見ある<ref>中川収「続藤原武智麻呂と房前」『権を主導した治経済史学』347、1995年</ref>。なお、武智麻呂は太政官の首班となり天平6年([[734年]])には[[従二位]]・[[右大臣]]に至るが、房前は他氏族とのバランスもあり、[[官位]]は弟たちと同様に正三位・参議に留まる。天平9年([[737年]])4月17日に他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。[[享年]]57。最終官位は参議[[民部卿]]正三位。
 
房前の子孫である[[藤原北家]]は、藤原四兄弟の子孫[[藤原四家]]の中で最も繁栄した。
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* [[神亀]]元年([[724年]]) 2月4日:[[正三位]]
* 神亀3年([[726年]]) 日付不詳:授刀長官、兼[[近江国|近江]][[若狭国|若狭]][[按察使]]<ref name="kb">『公卿補任』</ref>
* 神亀5年([[728年]]) 87121日:兼[[中衛府|中衛大将]]<ref>『類聚三代格』巻4</ref>
* [[天平]]元年([[729年]]) 9月28日:兼[[中務省|中務卿]]
* 時期不詳:兼[[民部卿]]
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==