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[[File:AWMellon.jpg|thumb|アンドリュー・メロン]]
'''アンドリュー・ウィリアム・メロン'''('''Andrew William Mellon''', [[1855年]][[3月24日]] - [[1937年]][[8月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[銀行]]家、[[実業家]]、[[慈善]]家、美術品収集家。[[1921年]][[3月4日]]から[[1932年]][[2月12日]]まで[[アメリカ合衆国財務長官]]を務め、[[世界恐慌]]にあって[[所得税]]減税や公共支出削減などの[[経済政策]]を実施した。民主党下院議員ライト・パットマン([[:en:Wright Patman|Wright Patman]])から財務省根拠法違反、ならびに脱税を理由に追及され辞職したが、パットマンは以来生涯をかけて[[メロン財閥]]をふくむ[[投資信託]]を批判した。
 
== 生涯青年期 ==
[[1855年]][[3月24日]]、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]において銀行家[[トマス・メロン([[:en:Thomas Mellon|Thomas Mellon]]の息子として誕生した。
=== 青年期 ===
[[1855年]][[3月24日]]、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]において銀行家[[トマス・メロン]]の息子として誕生した。
 
1872年に材木事業を始め、若くして財を築き上げた。翌1873年に[[西ペンシルベニア大学]]を卒業すると、父親が経営する銀行に参加し、1882年には所有権を譲り受けた。1889年、[[ユニオン信託]]を設立し、さらに銀行経営から石油、鉄鋼、造船、建設などの事業を展開した。そして1890年代末には、[[ジョン・ロックフェラー]]、[[ヘンリー・フォード]]と並ぶ、アメリカ合衆国で最も財のある3人の富豪のうちの1人に成長した。1900年、イギリスの[[ハートフォード (ハートフォードシャー)|ハートフォード]]においてノラ・マクマレンと結婚した。1901年には娘のエイルサが、1907年には息子の[[ポール・メロン|ポール]]が誕生した。1913年、1908年に死去した父親トマス・メロンを追悼するため、弟のリチャード・メロンとともにメロン工業研究所(現在の[[カーネギー・メロン大学]])を設立した。[[第一次世界大戦]]中、[[アメリカ赤十字]]などの募金活動や、[[キリスト教青年会]]、ワシントン学術研究会議に積極的に参加した。
 
=== 財務長官時代 ===
1900年、イギリスの[[ハートフォード (ハートフォードシャー)|ハートフォード]]において[[ノラ・マクマレン]]と結婚した。1901年には娘の[[エイルサ・ブルース|エイルサ]]が、1907年には息子の[[ポール・メロン|ポール]]が誕生した。
1921年、メロンは[[ウォレン・ハーディング]]大統領によって組閣された内閣の一員として、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]に任命された。組閣直後からハーディング大統領はメロンに対して関税や戦争税などの税制改革と連邦予算の作成を矢継ぎ早に指示したが、メロンは銀行家としての長い経験を活かし、それらの要求に対して迅速に応えた。物価抑制および[[トリクルダウン理論]]を根拠に減税を推進する一方、公共事業に[[投信]]を利用することで政府の固定費用を削減するよう[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]に繰り返し働きかけ、その剰余金を国庫借入金の返済に充当した。メロンが財務長官に就任した当時、政府の歳出は65億ドルであった(1920年度予算)。さらにその後2年半の固定費用として75億ドルが計上されていた。メロンは就任からわずか3年で固定費用を35億ドルにまで減少させ、国庫借入金を28億ドル削減した。短期固定費用は完全に清算され、政府の財政は黒字に転換した。
 
1923年8月、ハーディングの死去により副大統領の[[カルビン・クーリッジ|カルヴァン・クーリッジ]]が大統領に昇任した。ハーディング内閣の閣僚はそのままクーリッジ政権に継承され、メロンもまた留任した。同年11月、メロンは「[[メロン計画]]」と呼ばれる文書を下院歳入委員会に提出した。この文書は剰余収益を基盤に減税を行うことを主張したものであり、翌1924年にはこの提言の大部分が[[歳入法 (1924年)|歳入法]]として成立した。1921年の税率はそのまま維持されたが、結果として毎年の税負担が4億ドル軽減された。この改革により1921年には260億ドルあった国庫借入金が、1930年には160億ドルにまで減少した。
1913年、1908年に死去した父親トマス・メロンを追悼するため、弟の[[リチャード・メロン]]とともに[[メロン工業研究所]](現在の[[カーネギー・メロン大学]])を設立した。
 
1929年3月、政権が[[ハーバート・フーヴァー]]大統領に交代したが、メロン計画の成功を買われたメロンは引き続き財務長官を務めることになった。しかしながら同年11月、[[世界恐慌]]が発生すると、メロンは世論の猛烈な批判を浴びることになった。この時期メロンは、「労働者、株式、農民、不動産などを清算すべきである。古い体制から腐敗を一掃すれば価格は適正になり、新しい企業家達が再建に乗り出すだろう」と発言したが、これはフーヴァー政権の無策の象徴として不評を買った(日本の経済学者[[竹森俊平]]は[[濱口内閣]]や[[小泉内閣]]にも通じる「不況を通じて腐敗を清算してこそ好況につながる」という思想として「[[清算主義]]」と命名した)。フーヴァー政権は[[スムート・ホーリー法]]などの税制政策により国内経済の安定を図ったが高い関税率により輸出は停滞。1932年2月、メロンは財務長官を辞任した。
[[第一次世界大戦]]中、[[アメリカ赤十字]]などの募金活動や、[[キリスト教青年会]]、[[ワシントン学術研究会議]]に積極的に参加した。
 
== パットマンからの挑戦 ==
=== 財務長官時代 ===
1932年1月6日、テキサス州選出の民主党ライト・パットマンが下院議長にメロンを弾劾したいと申し出た。彼の主張は財務省の設立根拠法(1789年)に基づいていた。同法は任期にある財務大臣が商取引に関わることを禁じていた。メロンは300社の議決権つき株式を保有しており、総資産は30億ドルにのぼるとパットマンは指摘、財務省根拠法に反していると訴えた。メロンは就任後「他の船舶と商業活動で競合する多くの船舶を単独もしくは共同で所有」しつづけており、「したがって財は商品の大量輸入に個人的に利害関係が存在した」とパットマンは申し立てた。「船舶」は財務省根拠法の文言で直接的に禁じられているということだった。パットマンの指摘は終らなかった。メロンは財閥傘下の銀行と信託会社の株式保有から税金還付を受けていると指摘した。メロンは、現[[アルコア]]のアルミニウム・カンパニー・オブ・アメリカの主要株主として、アルミを需要する数百万ドルの[[公共事業]]に予算を割くなど、違法寸前の利益相反にも手を染めていた。パットマンは脱税も追及した。メロンが1930年に[[サンクトペテルブルク]]の[[エルミタージュ美術館]]から700万ドルで絵画を購入した証拠を、パットマンは提出した。しかしメロンは事実を否定し、翌1931年の税務申告で購入価格を慈善活動への寄付として所得から控除した。これら商取引および脱税を告発した書類が上院小委員会へ提出された。1932年2月12日、メロンは財務長官を辞任した。[[ハーバート・フーヴァー]]は[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス大使]]を任じ、メロンの政治生命をつないだ。同年末に[[アイルランド総督]]が廃止された。翌1933年3月にメロンは下野した。
1921年、メロンは[[ウォレン・ハーディング]]大統領によって組閣された内閣の一員として、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]に任命された。組閣直後からハーディング大統領はメロンに対して関税や戦争税などの税制改革と連邦予算の作成を矢継ぎ早に指示したが、メロンは銀行家としての長い経験を活かし、それらの要求に対して迅速に応えた。
 
1934年3月19日、司法長官ホーマー・カミングズ([[:en:Homer Stille Cummings|Homer Stille Cummings]])がメロンとラモント(Thomas Stilwell Lamont, 父は[[JPモルガン]]の[[:en:Thomas W. Lamont|Thomas W. Lamont]])を連邦所得税の脱税で告訴した。しかし、大陪審が訴追を求める政府の要求に応じなかった。1935年初頭、メロンの勝手な税務申告処理は合衆国連邦税不服審判所で争われ、メロンは未納分80万ドルを納付するよう命令された。
しかしながらメロンは保守的な共和党員として、また資本家として、現状の政府の予算管理の手法に満足していなかった。当時の政府の財政は、歳出の増加に対して歳入が追いついておらず、貯蓄が減少している状況であった。
 
1937年、メロンは自己の所有する美術品と現金1000万ドルを寄贈し、[[ワシントンD.C.]]に[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]を建設した。1937年8月27日、メロンは[[ニューヨーク州]][[ロング・アイランド]]の[[サウサンプトン]]で死去した。その後メロンの子供たちの手により{{要出典|date=2011年11月}}、メロンの功績を称えて、[[アンドリュー・メロン財団]]が設立された。
メロンは危機的状況に向かいつつある合衆国の財政を立て直すため、税制改革を推進した。まずメロンは物価の高騰の原因が高い税金にあると判断し、物価の上昇を抑えるために減税措置を執った。続いてメロンは政府の固定費用を削減するよう[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]に繰り返し働きかけ、その剰余金を国庫借入金の返済に充当した。そして政府の出費が節減されたことにより、さらに税金を下げることができるようになった。
 
メロンは大企業が多くの仕事を確保できれば、一般大衆にもお金が回るようになるという[[トリクルダウン理論]]を支持し、大企業に対して税制優遇措置を執った。この政策は後の政権にも継承され、[[ハーバート・フーヴァー]]大統領は[[世界恐慌]]の際に大企業に対して大規模な減税を行った。
 
メロンが財務長官に就任した当時、政府の歳出は65億ドルであった(1920年度予算)。さらにその後2年半の固定費用として75億ドルが計上されていた。メロンは就任からわずか3年で固定費用を35億ドルにまで減少させ、国庫借入金を28億ドル削減した。短期固定費用は完全に清算され、政府の財政は黒字に転換した。
 
1923年8月、ハーディングの死去により副大統領の[[カルビン・クーリッジ|カルヴァン・クーリッジ]]が大統領に昇任した。ハーディング内閣の閣僚はそのままクーリッジ政権に継承され、メロンもまた留任した。同年11月、メロンは「[[メロン計画]]」と呼ばれる文書を下院歳入委員会に提出した。この文書は剰余収益を基盤に減税を行うことを主張したものであり、翌1924年にはこの提言の大部分が[[歳入法 (1924年)|歳入法]]として成立した。1921年の税率はそのまま維持されたが、結果として毎年の税負担が4億ドル軽減された。この改革により1921年には260億ドルあった国庫借入金が、1930年には160億ドルにまで減少した。
 
1929年3月、政権が[[ハーバート・フーヴァー]]大統領に交代したが、メロン計画の成功を買われたメロンは引き続き財務長官を務めることになった。しかしながら同年11月、[[世界恐慌]]が発生すると、メロンは世論の猛烈な批判を浴びることになった。この時期メロンは、「労働者、株式、農民、不動産などを清算すべきである。古い体制から腐敗を一掃すれば価格は適正になり、新しい企業家達が再建に乗り出すだろう」と発言したが、これはフーヴァー政権の無策の象徴として不評を買った(日本の経済学者[[竹森俊平]]は[[濱口内閣]]や[[小泉内閣]]にも通じる「不況を通じて腐敗を清算してこそ好況につながる」という思想として「[[清算主義]]」と命名した)。フーヴァー政権は[[スムート・ホーリー法]]などの税制政策により国内経済の安定を図ったが高い関税率により輸出は停滞。1932年2月、メロンは財務長官を辞任した。
 
メロンは財務長官退任後、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐イギリス大使]]として渡英した。そして1年間の大使生活を送った後、第一線を退いた。
 
=== 引退後 ===
退職後、メロンは積極的に慈善活動に参加し、教育・文化・研究活動に対する資金援助を行った。
 
生涯を通じて、メロンは可能性を秘めた人物や考えに対して、躊躇うことなく援助を投じた。アルミニウムなどの製造で名を成した[[アルコア]]社もメロンの支援によって成長した企業の1つであり、炭化ケイ素の将来性を感じたメロンが大規模な投資を行った。
 
1937年、メロンは自己の所有する美術品と現金1000万ドルを寄贈し、[[ワシントンD.C.]]に[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]を建設した。
 
1937年8月27日、メロンは[[ニューヨーク州]][[ロング・アイランド]]の[[サウサンプトン]]で死去した。その後メロンの子供たちの手により{{要出典|date=2011年11月}}、メロンの功績を称えて、[[アンドリュー・メロン財団]]が設立された。
 
== 関連項目 ==
* [[アンドリュー・メロン財団]]
 
== 外部リンク ==
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