「土岐持頼」の版間の差分

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持頼はその後も将軍義教の側に仕えたが、徐々に疎んじられ対立するようになり、永享12年(1440年)に遂に義教は持頼と[[一色義貫]]の討伐を下命。持頼は[[大和国|大和]]に出陣しているところを[[細川氏]]の手勢により殺害された。
 
土岐世保家は子の政康が継いだ。政康は[[応仁の乱]]に際して東軍に属し、幕府から一時的に伊勢守護に任じられたものの、[[一色氏]]や北畠氏との合戦に敗れ没落していった。
 
== 美濃守護家との関係 ==