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=== セレッソ大阪時代 ===
複数のJクラブによる争奪戦が展開されたが{{R|maga2002}}小峯からは[[セレッソ大阪]]か[[アビスパ福岡]]を勧められ<ref>[[#jiden|自伝,75頁]]</ref>、2001年に目標の[[森島寛晃]]が在籍する<ref>[[#jiden|自伝,80-82頁]]</ref>C大阪に<ref>{{Wayback|date=20110917105051|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail_backnum.asp?c_idx=650&contents_code=100&date_s=2001/01&iPage=|title=新加入選手についてのお知らせ}}セレッソ大阪 (2001年1月19日)</ref>。同年3月17日に[[2001年のJリーグ ディビジョン1|J1]]・1st第2節[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦に途中出場し[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]デビューを果たす<ref>[http://www.cerezo.jp/matches/result/top-teams/archive/2001/01102.html/ 2001 Jリーグ ディビジョン1 1st ステージ 第2節第1日 浦和レッズ対セレッソ大阪] セレッソ大阪 (2001年3月17日)</ref>{{R|jdata2001}}。[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]1回戦[[ジュビロ磐田|磐田]]戦の先制点<ref>[http://www.cerezo.jp/matches/result/top-teams/archive/2001/01300.html/ 2001 Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 1回戦第1戦 ジュビロ磐田対セレッソ大阪] セレッソ大阪 (2001年4月4日)</ref>がプロ初得点。1st第5節磐田戦でリーグ戦初得点を挙げたが、前半中に退場処分を受けた<ref name="jdata2001">[http://data.j-league.or.jp/SS/jpn/team/2001010001_000031_W0707_J.html 選手出場記録] Jリーグ (2001年8月9日)</ref>{{R|nikprof}}。その後、左[[三角靱帯]]損傷によって[[2001 FIFAワールドユース選手権|同年開催のワールドユース]]出場を逃し{{R|maga2002}}<ref>[[#jiden|自伝,97頁]]</ref>、リハビリ中の筋力トレーニングでキレを失ったこともあって{{R|maga2002|daily2017}}リーグ戦も大半が途中出場で通年2得点に留まった。同年末、C大阪は総合成績で16位となり[[J2リーグ|J2]]へ降格したが、高校時の恩師小嶺や先輩に相談を仰いだ上でC大阪残留を選択した{{R|maga2002}}。
 
2002年は、J2第3節[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦の2得点で自信を取り戻すと{{R|daily2017}}、好調を維持して29試合<ref group="注">この年度のJ2は全44節。</ref>に出場し、[[アルビレックス新潟|新潟]]所属の[[マルクス・ビニシウス・デ・モライス|マルクス]]に次ぐ得点ランキング2位の18得点を記録<ref>{{cite web|url=http://www.j-league.or.jp/data/view.php?d=j2&t=score&s=44&y=2002|title= 得点順位表 2002Jリーグ ディビジョン2 【第44節】|work=[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]公式サイト |accessdate=2011-02-05}}</ref>1年でのJ1復帰の原動力となった{{R|nikprof}}。また、[[U-23サッカー日本代表|アテネオリンピックに向けた日本代表]]に選出。
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オリンピックで活躍がきっかけとなり、2004年11月に[[リーガ・エスパニョーラ]]所属の[[RCDマヨルカ]]へ[[期限付き移籍]]が決定<ref>{{Wayback|date=20140203230901|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail_backnum.asp?c_idx=2130&contents_code=100&date_s=2004/11&iPage=2|title=大久保 嘉人選手 スペイン1部リーグ・マジョルカ 期限付き移籍合意について}}セレッソ大阪 (2004年11月8日)</ref>。[[エクトル・ラウル・クーペル|エクトル・クペル]]監督の評価は好意的で<ref>[http://www.asahi.com/sports/fb/TKY200501080231.html マジョルカ大久保、初戦でベンチ入りへ 先発の可能性も] [[朝日新聞デジタル]] (2005年1月8日)</ref>、選手登録が解禁された直後の<ref>[http://www.asahi.com/sports/fb/OSK200411080049.html セ大阪・大久保、スペイン1部のマジョルカに移籍] [[朝日新聞デジタル]] (2004年11月8日)</ref>2005年1月10日、第18節[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]戦で初出場。[[ルイス・ガルシア・フェルナンデス|ルイス・ガルシア]]の得点をアシストし、自身も1得点を挙げる<ref>[http://www.asahi.com/sports/fb/TKY200501090169.html 大久保、1得点1アシストの鮮烈デビュー スペイン1部] [[朝日新聞デジタル]] (2005年1月10日)</ref><ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/match?id=169852&cc=4716 |title=Mallorca 2 - 2 Deportivo La Coruña|language=英語|author= [[ESPN]] Soccernet|accessdate=2011-02-05}}</ref>{{R|nikprof|SW20050110}}好デビューを飾ったが、下位に沈むチームにあって2得点目が遠く<ref>{{cite web|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/14152|title= 大久保の2ゴール目はきっと近い。|work= [[Sports Graphic Number|Number web]]|author=鈴井智彦|date=2005-02-04|accessdate=2011-02-05}}</ref>、一時出場機会を減じた。終盤戦には控えとなったガルシアに代わって先発出場し{{R|nik2005}}、第36節[[アスレティック・ビルバオ]]戦及び第37節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げた他、2アシストとPK獲得の活躍で<ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/match?id=179117&cc=4716 |title=Mallorca 4 - 3 Athletic Bilbao|language=英語|author= ESPN Soccernet|accessdate=2011-02-05}}</ref><ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/match?id=179136&cc=4716 |title=Deportivo La Coruña 0 - 3 Mallorca|language=英語|author= ESPN Soccernet |accessdate=2011-02-05}}</ref>マヨルカの奇跡的とも言える1部残留に貢献した<ref name="nik2005">{{Wayback|date=20051109080802|url=http://osaka.nikkansports.com/osc/p-ot-tp3-050531-0023.html|title=マジョルカ奇跡的残留、大久保も残留濃厚}} [[日刊スポーツ]]大阪版 (2005年5月31日)</ref>{{R|nikprof}}。シーズン終了後、UEFA選出スペインリーグ・若手ベストイレブンを受賞<ref>{{cite web|author=DIVINANET.COM|archiveurl=http://replay.web.archive.org/20080626103229/http://www.divinanet.com/news/20050603180136.htm |url=http://www.divinanet.com/news/20050603180136.htm |title=大久保、若手ベスト11に選出|newspaper= |date=2005-06-03|archivedate=2008-06-26|accessdate=2011-05-03}}</ref>。
 
マヨルカからの評価は高く{{R|nik2005}}、C大阪との移籍期間延長交渉を経て<ref name="nikprof">[http://www.nikkansports.com/soccer/world/world-j/wj_okubo_p.html 大久保嘉人プロフィル] [[日刊スポーツ]]</ref>2005-06シーズンもクラブに残留<ref>{{cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail_backnum.asp?c_idx=2406&contents_code=100&date_s=2005/06&iPage= |title=大久保嘉人選手 マジョルカ移籍期間延長決定|work= セレッソ大阪公式サイト 2005.6.14付ニュースリリース|date=2005-06-14|accessdate=2011-02-05}}</ref>。しかし同シーズンは途中出場が大半で、シーズン途中に監督に就任した[[グレゴリオ・マンサーノ]]体制下でのさらなる出場機会減に危機感を抱き退団移籍を決意<ref>[http://germany2006.nikkansports.com/local/p-sc-tp5-20060507-0005.html 大久保C大阪復帰も、マジョルカ退団決意] [[日刊スポーツ]] (2006年5月7日)</ref>。移籍期間満了後に退団移籍が決定した。スペインでの通算成績は39試合5得点6アシスト。後に、不遇を託ったことでより良いプレースタイルを考えることができたと述懐している{{R|daily2017}}。
 
オリンピック以後も継続的にA代表に招集されていたが、得点を挙げられないまま2005年10月のヨーロッパ遠征を最後に招集されなくなり、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年のワールドカップ]]出場を逃した。結局、ジーコ体制下では無得点に終わった。
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[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[VfLヴォルフスブルク]]の[[フェリックス・マガト]]監督の強い希望により{{R|number2009-2}}、[[2009年]]1月に同クラブへ完全移籍<ref name="kobe2009">{{Wayback|date=20111001011447|url=http://www.vissel-kobe.co.jp/whatsnew/wn_2986.html|title=FW大久保嘉人選手の海外移籍について}} [[ヴィッセル神戸]] (2009年1月3日)</ref>。移籍金交渉は難航したが{{R|kobe2009}}、移籍を望んだ本人の意向に添う形で、神戸側が最終的に譲歩し、推定2億5000万円で合意<ref name="kobenp2009">{{cite web|url=http://www8.kobe-np.co.jp/sports/vissel/news/news-00277.shtml |title=大久保がドイツで会見|work=Live!VISSEL([[神戸新聞]]ヴィッセル神戸応援ページ)|date=2009-01-06|accessdate=2011-02-05}}</ref>。
 
[[キック (サッカー)|オーバーヘッドシュート]]を放った事が理由でマガトの怒りを買ってベンチ入りメンバーから外されるという経験もしたが<ref name="number2009-1">{{cite web|url= http://number.bunshun.jp/articles/-/13841|title= ブンデスリーガ蹴球白書 大久保嘉人は通用しなかったのか。-日本代表FWがドイツを去った理由- 1|author= ミムラコウスケ|publisher= Number web|date= 2009-07-10|accessdate= 2011-02-05}}</ref>、ドイツのサッカーに慣れるに従い、相手選手に体をぶつけられても倒れることなくドリブルで進めるまでになった{{R|number2009-1}}。この経験について大久保自身は取材に対し、「試合に出れなくて、まぁ、いいや、って思ったら、もう終わりよ。(中略)サッカー選手をやっている以上は、出たい、出たい、って感じで練習もするやん<ref name="number2009-2">{{cite web|url= http://number.bunshun.jp/articles/-/13841?page=2 |title= ブンデスリーガ蹴球白書 大久保嘉人は通用しなかったのか。~日本代表FWがドイツを去った理由~ 2|author= ミムラコウスケ|publisher= Number web|date= 2009-07-10|accessdate= 2011-02-05}}</ref>」というコメントを残している。2008-09年度シーズンにおいて、[[長谷部誠]]と共にクラブ史上初となるドイツ国内主要サッカー大会<ref group="注">[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]1部、[[DFBポカール|ドイツカップ]]などを通して。</ref>初優勝達成を経験したが、大久保自身は、ポジションの重なる[[エジナウド・バチスタ・リバノ|グラフィッチ]]や[[エディン・ジェコ]]が好調で{{R|chunichi2009}}{{Refnest|group=注|グラフィッチは28得点、ジェコは26得点を挙げ、2008-09年度ブンデスリーガの得点ランキング1位2位を独占<ref>[http://www.goal.com/en/news/725/bundesliga/2009/05/23/1282105/bundesliga-comment-grafite-and-dzeko-a-match-made-in-heaven Bundesliga Comment: Grafite And Dzeko - A Match Made In Heaven] (英語) Goal.com (2009年5月23日)</ref>。}}彼ら大柄な選手に合わせたサッカーが展開されていたこともあって{{R|sky2011}}、出場機会は乏しかった<ref name="chunichi2009">{{Wayback|date=20090423082016|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/soccer/news/CK2009042102000134.html|title=大久保「J復帰したい」}}[[中日スポーツ]] (2009年4月21日)</ref>。自身を評価するマガトの退任と{{R|number2009-2}}ワールドカップ出場を見据え{{R|chunichi2009}}、1シーズンでの退団移籍を決断。
 
=== ヴィッセル神戸時代(第2期)===