「レジオンドヌール勲章」の版間の差分

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== 歴史 ==
{{加筆依頼|特にグレゴリオ暦での日付部分における共和暦での日付を この当時は共和暦が使用されていたはずなので|date=2017-07|section=1}}
[[File:Décret portant création de la Légion d'honneur.jpg|thumb|レジオンドヌール勲章の創設を命じた[[共和暦]]X(10)年フロレアル29日(1802年5月19日)の政令]]
[[File:Debret_-_Premiere_distribution_des_decorations_de_la_Legion_d%27honneur.jpg|thumb|right|[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]による初のレジオンドヌール勲章授与式。{{仮リンク|ジャン=バティスト・ドブレ|fr|Jean-Baptiste Debret}}画]]
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[[フランス革命]]では実際にアンシャン・レジームの全ての勲章を廃止していた。[[憲法制定国民議会]]は軍事功労章([[:fr:Décoration militaire (France, 1791)|Décoration militaire]])を創設したが、これもすぐに廃止された。[[国民公会]]下では、将軍たちは栄誉の武器([[:fr:Armes d'honneur|fr]])(栄誉の銃、栄誉の剣、あるいは栄誉の太鼓など)を勇敢な行為に報いるために与えるのが慣習であった。
 
法案<ref>法案準備の任に当たった委員会の議長は[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]であった。</ref>は[[共和暦]]X(10)年フロレアル14日(1802([[1802]][[5月4日]])から[[国務院 (フランス)|国務院]]を前にして議論が行われた。第一統領ボナパルトは自ら干渉して全力で栄典の必要性を主張する一方、厳密に軍事的なオルドルを創設することを拒絶し、アンシャン・レジームへの回帰であるとする非難を反駁した。14票対10票で法案は可決された。5月17日に法案を付託された[[護民院]]では[[リュシアン・ボナパルト]]が報告者に指名されており、新しい貴族の復活と、平等という革命の原則の歪曲を恐れた[[ジャコバン派]]の反対にもかかわらず、法案を56票対38票で承認した。最終的に、リュシアン・ボナパルト、{{仮リンク|ピエール=ルイ・ロデレール|fr|Pierre-Louis Roederer}}、[[オーギュスト・マルモン|オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン]]、{{仮リンク|マチュー・デュマ|fr|Mathieu Dumas}}が法文を弁護し、1802年[[5月19日]]に[[立法院 (フランス)|立法院]]は166票対110票で可決した。第一統領ボナパルトは共和暦X年プレリアル9日([[1802(1802]][[5月29日]])になるまで法に署名捺印しなかった<ref>Source : [http://www.crdp-reims.fr/ressources/dossiers/legiondhonneur/panneau6/panneau6.htm www.crdp-reims.fr]</ref>。
 
[[1804年]][[7月14日]]、[[オテル・デ・ザンヴァリッド|廃兵院]]の礼拝堂において、公式の豪華な儀式の中で功績ある将校たちへのレジオンドヌールの初の授与がフランス皇帝ナポレオン1世となったナポレオン・ボナパルトによって行われた。
 
共和暦XIII(13)年プリュヴィオーズ10日(1805([[1805]][[1月30日]])には保有者が「グラン・テーグル」(Grand Aigle, 大鷲)と呼ばれる大勲章が追加され、これは1814年7月19日の政令で「グラン・コルドン」(Grand Cordon, 大綬)、最終的には1816年5月26日の政令で「グラン・クロワ」と呼ばれるようになる。この日には、各名称が同様にコマンダン(Commandant)からコマンドゥールへ、レジオネール(Légionnaire)がシュヴァリエへと修正された{{要出典|date=2010年3月}}。
 
軍人と市民を組み合わせた(実際の配分はおよそ2:1)ことでこのオルドルはあらゆる体制下を生き延び続け、今日では11万人以上の佩綬者を数えるに至っている。