「廃藩置県」の版間の差分

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そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、①明治元年(1868年)以後の債務については[[公債]]を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する('''新公債''')、②[[弘化]]年間([[1844年]]〜[[1847年]])以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する('''旧公債''')、③そして天保年間以前の債務については[[江戸幕府]]が天保14年([[1843年]])に[[棄捐令]]を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の[[徳政令]])というものであった。
 
藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。外交問題にりえる外債はすべて現金で償還された。藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。[[朝敵]]となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに外国債分を除いてすべて無効とされた。また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた<ref>落合弘樹、「秩禄処分」、中公新書、p71</ref>。
 
その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった('''藩債処分''')。
 
だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の[[調所広郷]]による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。一般に江戸時代の金利は高く、例えば薩摩藩の250年分割以前の平均金利は16%に達していた。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の[[不良債権]]であり元金返済の見込みは薄くても名目上は[[資産]]として認められ、金利収入は大きく、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこう幕臣相手の債権を所有てい[[札差]]は瓦解した。大名貸し商人が続出しの多かった大阪([[大坂]]から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。
 
一方で、旧藩主やその家臣はこれらすべての債務に関してその全てを免責された上、その中には廃藩直前に藩札を増刷し債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。
 
== 廃藩置県当初に設置された県 ==