「陰陽五行思想」の版間の差分

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'''陰陽五行思想'''(いんようごぎょうしそう)とは、[[中国]]の[[春秋戦国時代]]ごろに発生した[[陰陽|陰陽思想]]と[[五行思想]]が結び付いて生まれた[[思想]]のこと。'''陰陽五行説'''(いんようごぎょうせつ)、'''陰陽五行論'''(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。
 
== 十干十二支 ==
{{Main|干支}}
陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる)の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。'''甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、'''は音読みでは、'''こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、'''と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、訓読みにすると、'''きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、'''となり、五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。きのえ、は「木の陽」という意味。
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十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。
 
== ==
陰陽五行説の暦、またそれをもとにした占いは、立春を一年の始まりとしている。また月の始まりも1日ではなく、二十四節気のうち月の前半に来る十二の節(年によって違うが概ね5~8日)が月の始めとなる。このように節から次の節の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、その月を節月という。また月の節入り(せついり)という。
*[[立春]](正月節)、新暦2月4日頃
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だから[[小寒]](1月5日頃)から[[立春]]前日(2月3日頃)の「年の干支」は前年の干支となるし、「月の干支」は十二月の丑となる。
 
== 陰陽五行思想の論理 ==
「陰陽五行思想」とは前述の通り「陰陽思想」と「五行思想」を組み合わせたものである。
「陰陽思想」は古代中国神話に登場する帝王「[[伏羲]]」が作り出したものであり、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想である。
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:水は火を消し、火は金を溶かし、金でできた刃物は木を切り倒し、木は土を押しのけて生長し、土は水の流れをせき止める、という具合に、水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に影響を与え、弱めるということが「五行相剋」である。
 
== 日本における陰陽五行思想 ==
[[仏教]][[儒教]]と同じ[[5世紀]]から[[6世紀]]に[[日本]]には[[暦法]]などとともに伝わり、[[律令]]により[[陰陽寮]]という役所が設置された。その後、[[道教]]の[[道術]]を取り入れて、[[陰陽道]]へと日本独自の発展をした。
 
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*陰陽五行思想の実践
** [[四柱推命]]
** [[漢方|漢方医療]]
** [[鍼灸]]
** [[風水]]