「コンスタンティノス7世」の版間の差分

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[[944年]]、ロマノス1世はコンスタンティノス7世を後継者に指名した。既にクリストフォロスは病死しており、残る二人の息子をロマノスは評価していなかったのである。これにロマノスの次男・三男が反発して、[[クーデター]]でロマノス1世を追放した。二人は次にコンスタンティノスの追放を図ったが、ここで民衆の支持を受けていたコンスタンティノスは二人を逮捕させて追放。レカペノス家の勢力を一掃したコンスタンティノスは40代になってようやく実権を掌握することに成功した。
 
正帝の座を回復した後もコンスタンティノスは実際の政治は臣下に任せ、自らは引き続き学問研究に没頭した。彼の治世の下で学者が宮廷に集められて[[古代ギリシア]]文化の研究が進み、百科事典的な書物『抜粋』や農業書などが編纂された。コンスタンティノスは建築・音楽といった面に興味を持ち、教育にも力を入れた。また、自身も『[[バシレイオス1世]]伝』『[[テマ]]について』、および息子[[ロマノス2世]]のために書いた『[[{{仮リンク|帝国統治論]]|en|De Administrando Imperio}}』『[[{{仮リンク|儀式の書]]|en|De Ceremoniis}}』などの著作を残した。こうして、帝国は後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を迎えた。
 
また、[[後ウマイヤ朝]]、[[神聖ローマ帝国]]、[[キエフ大公国]]などと外交団を交換して友好の維持に努める一方、北シリア・メソポタミアではニケフォロス・フォカス(後の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]])やヨハネス・ツィミスケス(後の皇帝[[ヨハネス1世ツィミスケス]])などの活躍で東方で優位に立つことに成功した。