「カストラート」の版間の差分

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幼少時の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は、ボーイ・ソプラノとしても類稀な才能を有していたために周辺の人々からカストラートにされることが望まれたが、その父親の反対により実現せず、ベートーヴェン本人は後に[[作曲家]]となった。
 
18世紀のイタリアオペラは地元の唯一にして最大の娯楽であり、今でいうテレビドラマのようなものであり、多くの作品が大量生産されていた。当時の劇場はお上品に観劇する場ではなく観客の乱痴気騒ぎの場であり、[[カデンツァ]]などの即興や超絶技巧がもてはやされた。壇上の俳優も観客に輪をかけて慎みが無い存在で、尚且つ、作品の台本通りにしか演じられない役者は下の下とみなされ、彼らはオペラ全体の芸術性とかではなく、自分自身の虚栄心や競争心のアピールに励み、作家や作曲家に台本の変更を強要した。<ref>{{Cite book|和書|author=グレゴリウス山田|date=2017年2月1日|title=13中世実在職業解説本 十三世紀のハローワーク|publisher=一迅社|page=169|isbn=9784758032551}}</ref>こうした風潮もカストラートがもてはやされた理由の一つであった。
 
=== 消滅期 ===
前述の様な経緯で廃止、消滅の道を辿った。[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]が19世紀半ばに出版した『管弦楽法』の中では、カストラートはすでに「ほとんど完全に姿を消しつつある」<ref>訳文は[[広瀬大介]]訳、[[2006年]]、[[音楽之友社]]、455頁による。</ref>状態だったという。彼はローマでカストラートの歌声に接しており、件の状況を「それほど悔やまれることではない」としている。
 
[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]らによってオペラが演じる俳優の物からオペラ作家と興行主の物となるにつれてオペラから凝った技巧は排除され、重厚な演奏が重要視されるようになり、それによって楽器の数が増大したため勝手に台本を変えることが困難になったため演じる役者は台本通りに演じることを強いられるようになり、オペラの舞台から即興の余地は無くなった。こうしてカストラートは姿を消していった<ref>{{Cite book|和書|author=グレゴリウス山田|date=2017年2月1日|title=13中世実在職業解説本 十三世紀のハローワーク|publisher=一迅社|page=169|isbn=9784758032551}}</ref>。
 
記録に残る歴史上最後のカストラート歌手は[[1922年]]に死去した[[アレッサンドロ・モレスキ]]であり、[[20世紀]]初頭の録音が残されているが、年齢的にはピークの時期をおよそ過ぎてからのものである。
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== 修行 ==
カストラートを育成したのはイタリアの音楽院であった。それらの多くは[[孤児院]]を母体としており、そこが孤児たちに聖歌などを歌わせるアルバイトをさせていた事から音楽に特化した学校が生まれたと考えられる。そこでの学生の生活は厳しかったようで、狭い宿舎に押し込まれ、食事はサラダとチーズだけ等と食事も十分とは言えなかったらしい。カストラート候補生は他の音楽学生よりは優遇されていたそうだが、虐めがあったらしく脱走率が高かった。カストラート候補生は学生時代から様々なアルバイトをさせられていたが、その中でも著名だったのが[[両性具有]]者とみなされて[[天使]]の役として子供の葬儀で歌を歌う「少天使」であった。他にも歌を歌う様々な仕事をさせられており、時代が下るにつれ音楽学校は収入源としてこれらの仕事を増やしていった<ref>{{Cite book|和書|author=グレゴリウス山田|date=2017年2月1日|title=13中世実在職業解説本 十三世紀のハローワーク|publisher=一迅社|page=171|isbn=9784758032551}}</ref>。
 
== ボーイ・ソプラノ等との違い ==