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[[ファイル:1894 paris-rouen - count albert de dion (de dion-bouton steam tractor) finished 1st, ruled ineligible for prize.jpg|thumb|left|200px|ド・ディオン・ブートン社の[[蒸気自動車]]に乗るアルベール・ド・ディオン伯爵。]]
=== 自動車競技の起源 ===
自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは[[1887年]]4月28日に[[フランス]]の[[パリ]]で行われたもので、その内容はヌイイ橋から[[ブローニュの森]]までの約2[[キロメートル]]を走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車をドライブした{{仮リンク|ジョルジュ・ブートン|en|Georges Bouton}}であった。彼は[[{{仮リンク|アルベール・ド・ディオン|en|Jules-Albert de Dion}}[[伯爵]]と共に{{仮リンク|ド・ディオン・ブートン社|en|De Dion-Bouton}}を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく<ref>折口 1970, p. 20.</ref>、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。
 
{{Double image stack|right|1894 paris-rouen - albert lemaître (peugeot 3hp) 1st.jpg|1894 paris-rouen - Gratien Michaux in mantes (-30 peugeot phaeton 3hp) 9th.jpg|200|正式な優勝者である、ジョルジュ・ルメートルと彼が所有する[[プジョー]][[:en:Peugeot Type 3|Type3]](写真:上)<br>[[パリ]] - [[ルーアン]]レースの様子。何も規制されていない[[公道]]の中でレースを行う(写真:下)}}
 
記録として残る自動車競技は[[1894年]]7月22日に開催された、127キロメートルの{{仮リンク|パリ - [[ルーアン]]・トライアル|en|Paris–Rouen (motor race)}}である。この企画は、フランスの大衆新聞「{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|en|Le Petit Journal (newspaper)}}」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、[[マント=ラ=ヴィル|マント]]では昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた<ref>折口 1970, p. 22.</ref>。参加費用に10[[フラン (通貨)|フラン]]を徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。
 
ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした<ref>応募車両の動力には「圧縮空気」「重力」「家畜動力併用」など、本気で出場する気があったのか疑わしい内容も多数存在したという。現実のレースに出場したのは[[蒸気自動車]]とガソリン自動車・オートバイだけであった。</ref>。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であった[[プジョー]]、[[パナール]]、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した<ref>アメデー・ボレーと息子のアメデー2世およびレオンは、1873年以来長らく蒸気自動車を開発し続けていた。このレースでラ・ヌーヴェルは鈍足ながら十分な信頼性を示し、途中リタイアしたドライバーたちを拾ってルーアンまで完走している。</ref>。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車の[[:en:Peugeot Type 3|プジョー Type 3]]を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートル<ref>宇宙物理学者の[[ジョルジュ・ルメートル]]ではない。</ref>と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールした[[パナール|パナール・ルヴァッソール]]のルネ・パナールの2名とされた<ref>折口 1970, p. 22.</ref>。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした<ref>{{Cite news | url = http://www.racing-database.com/Race.asp?GP=I%20Paris-Rouen%20Trial| title = I Paris-Rouen Trial| publisher = Racing-Database.com| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。