「ヤマハ・モーター・レーシング」の版間の差分

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{{MGP|2004}}はバロスに代わり[[バレンティーノ・ロッシ]]が加入すると、シーズン9勝を挙げMotoGPクラス初チャンピオンをチームにもたらす。前年の未勝利から一転した結果が得られた理由は、エンジン特性が低回転域からマイルドに吹け上がる位相同爆エンジンになり、ピークパワーは向上させずマシンがコーナリング中で傾いた状態からでもアクセルを開けやすい性格になったことや4バルブエンジンへの回帰、新加入のチャンピオンのロッシがピークパワーで劣ることは承知の上で敢えてこう言った特性のマシンを望んだことなどがヤマハハンドリングとも言えるコーナリングからのなめらかで素早い加速につながるマシン作りへと結実した結果が表れた。この年以降、ヤマハは「ライダーフレンドリーなマシン開発」をテーマとして安定した成績を残すようになった。マシン開発の上では重要なターニングポイントとも言える一年になった。
 
{{MGP|2005}}にはロッシのチームメイトに[[コーリン・エドワーズ]]が加入。この年もロッシはシーズン11勝という圧倒的な強さでチャンピオンシップを連覇する。昨年ロッシ加入と共に見直されたマシン開発の方向性から、さらなる改良でピークパワーを上乗せしつつ車体特性の最適化がなされ、そのためにリアサスの応力を受けるピボットをエンジン後部のギアボックスに設置するなどの改良が施され、ピークパワーが上がり過激になったエンジン特性を電子制御スロットルなども導入してコントロール性とピークパワー向上の両立がはかられた結果がロッシの11勝での圧倒的なタイトル獲得につながった。さらにコンストラクタータイトルも獲得。浅間火山レース参戦に始まったヤマハモータースポーツ50周年を記念する素晴らしい成績で2005年を締めくくった。
 
{{MGP|2006}}は両ライダーともチームに残留する。メインスポンサー変更にともなってカラーリングが青ベースから黄色ベースに変更。マシンはさらに進化したものの、シーズン序盤はフロントタイヤ周りの微振動によるハンドリングのトラブルや開幕戦ではホンダのサテライトチームライダーのトニ・エリアスに追突されてロッシが転倒するなどの不運にも見舞われた。そんな中ホンダのニッキー・ヘイデンに大幅なポイントリードを許し、全ライダー中シーズン最多勝の5勝を挙げながらシリーズ2位でシーズンを終えた。最終戦のバレンシアではロッシにしては珍しく自身のミスによる決勝レース中の転倒で一度は逆転したポイントを再逆転されタイトルを失った。
{{MGP|2006}}は両ライダーともチームに残留する。ロッシは5勝・シリーズ2位でシーズンを終えた。
 
{{MGP|2007}}もライダーに変更はなく、新しい800cc仕様のYZR-M1でシーズンを戦った。ロッシはシーズン4勝・シリーズ3位に終わった。シーズンは、ドゥカティに移籍したケーシーストーナーが圧倒的な強さを見せ、シーズン7勝を挙げ初のタイトルを獲得。YZR-M1はピークパワーがドゥカティのデスモセディチGP7に対して大幅に劣っており、シーズン中のマシン開発で徐々に失地回復がなされるもののロッシの2年連続タイトル逃しにつながってしまう結果となった。これを経てヤマハモータースポーツ内部では再びピークパワー重視(エンジン特性を犠牲にしてでも)の意見が出るが、古沢正生チームリーダーをはじめ、マシン開発責任者の辻幸一氏、ライダーであるロッシの意見などもあり、今後もマシンバランスとハンドリング性能重視でさらなる改良を続けて行くことになったと言われている。
{{MGP|2007}}もライダーに変更はなく、新しい800cc仕様のYZR-M1でシーズンを戦った。ロッシはシーズン4勝・シリーズ3位に終わった。
 
エドワーズに代わりルーキーの[[ホルヘ・ロレンソ]]が加入した{{MGP|2008}}シーズン、チームはユニークな体制を取ることになった。ロッシ車が[[ブリヂストン]]タイヤ、ロレンソ車が[[ミシュラン]]タイヤを履くため、互いのタイヤメーカーの機密保持のため、2人は壁で隔てられた別々のピットを使用することになった。しかしエントリー上は単一の "フィアット・ヤマハ" としてチームタイトルを目指すかたちとなった。ロッシは18戦中9勝、残り9戦のうち7戦で表彰台を獲得する圧倒的な強さでチャンピオンに返り咲く。一方のロレンソもルーキーとは思えないほどの活躍を見せ、第3戦エストリルで早くも初優勝を収めた。