「シルヴィ・ギエム」の版間の差分

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プルミエール・ダンサーズ → プルミエール・ダンスーズ
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幼少の頃より[[体操]]を本格的に習い、12歳の時[[近代オリンピック|オリンピック]]国内予選を突破する。当時の[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]バレエ学校校長の[[クロード・ベッシー]]にスカウトされ、[[1976年]]にパリ・オペラ座バレエ学校に入学する。[[1981年]]に[[パリ国立オペラ|オペラ座バレエ団]]に入団する。「強靭な肉体」と表現されることも多く、柔軟な体、弓のようなアーチを描く足の甲や、200度は開いていそうな開脚・ジャンプが特徴である。クロード・ベッシーは彼女の足の型をとり、ブロンズ像を作らせたほどだった。
 
[[1983年]]、[[ヴァルナ国際バレエコンクール]]にて金賞・特別賞・優秀賞の三冠を手にする。[[1984年]]{{仮リンク|カルー賞|fr|Prix_du_Cercle_Carpeaux}}受賞。プルミエール・ダンスーズに昇進。[[1984年]]12月29日、初主演の『白鳥の湖』終演直後に、19歳にして当時の芸術監督[[ルドルフ・ヌレエフ]]より最高位であるエトワールに直々に任命される。ギエムは多忙を極め、固定のスタジオに彼女が残り、振付師と周りのダンサーだけが入れ替わりたちかわり出入りして一日が過ぎるような状態が続く。[[1985年]]、[[ヌレエフ]]と初来日し、『[[白鳥の湖]]』([[東京バレエ団]])に客演。
 
外部からのオファーがあっても受けることの許されない契約と束縛に不満が募り、[[1988年]]、パリ・オペラ座バレエ団を電撃退団。フランスでは「国家的損失」とまで言われた。同年[[イギリス]]に移り、[[ロイヤル・バレエ団]]のゲスト・プリンシパルとして活躍。フリーとして頻繁に日本にも訪れるようになる。2001年、『ブロークンホール』で[[オリヴィエ賞]]受賞。