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{{出典の明記|date=2014年9月19日 (金) 07:46 (UTC)}}
'''三・一五事件'''(さん・いちごじけん)は、[[1928年]][[3月15日]]に発生した、[[マルクス主義]]を忠実に実践するため非合法の[[無産政党]]の設立および[[第三インターナショナル]]の日本支部を目的として設立された日本共産党等の活動員数千名を検束、検挙された者が約300名、治安維持法に問われただちに[[市ヶ谷刑務所]]に収監された者が30名ののぼった事件である。<ref name="転向手記1">[{{NDLDC|1443545}} 転向手記] 永井哲二 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:24,25</ref><ref name="日本共産党始末記1">[{{NDLDC|1443761}} 日本共産党始末記] 北一夫 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:19</ref>
'''三・一五事件'''(さん・いちごじけん)は、[[1928年]][[3月15日]]に発生した、[[共産主義]]者への[[大日本帝国]]政府による[[弾圧]]事件。
 
 
== 背景 ==
当時の大日本帝国政府は私有財産制を否定する[[国際共産主義運動]]を、国体を脅かすものとして警戒していた。先の[[第一次世界大戦]]末期([[1917年]])には[[ロシア革命|ロシアで共産主義革命が発生]]していたが、[[シベリア出兵]]はこの[[ロシア革命干渉戦争|革命に対する列強の干渉戦争]]の極東戦線という意味合いがあった。結果的に列強による革命の阻止は失敗し、以降大日本帝国を含む諸列強は革命政府たる[[ソビエト連邦]]の存在を容認する方向へ進んでいくこととなる。
 
[[1924年]](大正13年)、第二次護憲運動に伴って成立した護憲三派による[[第一次加藤高明内閣]]は、以後[[1932年]](昭和7年)まで続く[[憲政の常道|憲政常道論]]に基づく政党内閣時代の始まりを告げるものであった。加藤内閣は普通選挙を実現したほか、日ソ間の国交を樹立した。「国体を変革しおよび[[私有財産]]を否認せんとする」結社・運動を禁止する[[治安維持法]]の成立(1925年3月)は、これらの政策とほぼ同時期のことであり、これによって、国体を変革することそのものである共産主義者、つまりは、議会による変革を否定し暴力革命をただひとつの方法とするものの疑いをかけられた個であるを政府が逮捕・投獄することが可能となった。
 
== 事件 ==
[[1928年]]2月、第1回予審判事[[普通選挙]]が実施されたが、社会主義的な政党([[無産政党]])の活動指揮危機感を抱いた政府([[田中義一内閣]])よって警察<ref name="転向手記1"/>は、[[3月15日]]、[[治安維持法]]違反容疑により全国で一斉検挙捜査を行った。[[日本共産党]](非合法政党の[[第二次共産党 (日本)|第二次共産党]])、[[労働農民党]]など、日本労働組合評議会、マルクス書房、東京市従業員組合本部、産業労働調査所、無産青年同盟本部、希望閣、他五十か所等の関係者約1600人[[逮捕|挙]]された。<ref name="日本共産党始末記1"/>
 
当時拘束された[[永井哲二]]によると当時の日本共産党には入党のために以下のような口頭試問を行っていた
作家、[[小林多喜二]]は三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表する(『[[戦旗]]』1928年11・12月号、発売禁止)。[[特別高等警察]]による[[拷問]]の描写が特高の憤激を買ったと言われている。
*諮問者「君は日本の現勢において合法的無産政党のみの活動で十分と思うか?」
*二郎「不十分だと思う」
*諮問者「それなら共産党というごとき組織を必要と思うか?」
*二郎「必要と思う」
*諮問者「君は参加してやってゆけるか?」
*二郎「やっていこう」
*諮問者「それなら命令通りにやってもらいたい。」<ref name="転向手記1"/>
 
作家、[[小林多喜二]]は三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表する(『[[戦旗]]』1928年11・12月号、発売禁止)。[[特別高等警察]]による[[拷問]]の描写が特高の憤激を買ったと言われている。
== 関連項目 ==
* [[第16回衆議院議員総選挙]]