「中澤佑二」の版間の差分

1999年9月8日に行なわれた[[サッカーイラン代表|イラン]]との親善試合でA代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれた[[AFCアジアカップ2000 (予選)|AFCアジアカップ2000予選]]の[[サッカーシンガポール代表|シンガポール]]戦で代表初得点。その後は[[シドニーオリンピックにおけるサッカー競技|シドニーオリンピック]]や[[AFCアジアカップ2000]]ではレギュラーとして活躍するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの[[松田直樹]]の控えに甘んじる事が増え、[[2002 FIFAワールドカップ]]本大会のメンバー発表前最後の試合であるアウェイの[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]戦にはフル出場(同年唯一のAキャップ)するが0-3で敗れ、[[秋田豊]]の選出もあってメンバー入りは叶わなかった。
 
その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、[[ジーコ]]監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、[[AFCアジアカップ2004]]ではグループリーグの[[サッカータイ王国代表|タイ]]戦で決勝点を含む2得点、[[バーレーン]]との準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、[[玉田圭司]]と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、[[2006 FIFAワールドカップ]]本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝ノックアウステナメント進出はならなかった。
 
ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月[[千葉県]]内で行われる日本代表候補合宿の[[オシムジャパン]]体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、[[2010 FIFAワールドカップ]]では[[田中マルクス闘莉王]]とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝ノックアウステナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝ノックアウステナメント進出に貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている<ref>[http://web.archive.org/web/20100905195823/http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100903024.html ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人] - スポニチ 2010年9月3日(2010年9月5日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[彩の国功労賞]]を受賞。
 
日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。
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