「石井蔵人」の版間の差分

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== 来歴 ==
蔵人忠清は、[[肥前国]][[佐賀城
蔵人忠清は、]]主[[龍造寺氏]]の重臣[[肥前石井氏|石井氏]]の四男家の生まれであるが、[[龍造寺隆信]]の命により、石井一族の惣領に任ぜられ、一族を率いた。それに伴い石井氏では、家の当主を宗家とし、実質的に一族を代表して采配を執る者を惣領とすることになった。
 
[[永禄]]5年([[1565年]])、龍造寺隆信が、[[肥前国]][[三根郡]]中野城主[[馬場鑑周]]を略のめた際、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が重用した側近の勇将[[石井忠修|石井源次郎]]らが戦死し、戦後、隆信は源次郎の死を惜しんで、哀愁の感状をしたため一族石井頭人惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[今山の戦い]]でも、[[大友親貞]]戦死後、蔵人忠清は石井隊を率いて、[[納富信景]]隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。
蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、宗家出身の[[石井茂成|石井修理亮茂成]]がつとめ、茂成の死後は、二男家の[[石井孝成|石井兵庫助孝成]]が引き継いでいる。
 
蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、宗家出身連枝の[[石井茂成|石井修理亮茂成]]がつとめ、茂成の死後は、二男家の[[石井孝成|石井兵庫助孝成]]が引き継いでいる。
蔵人忠清の嫡男[[石井景弘|但馬守景弘]]とその子孫は、[[佐賀藩]]においても、石井惣領家の由緒により重んじられた。
 
蔵人忠清の嫡男[[石井景弘|但馬守景弘]]とその子孫は、[[佐賀藩]]においても、石井惣領家の由緒により重んじられた。