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== 概要 ==
イアン・マスターズ([[ボーカル]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]])、グレアム・ネイスミス([[ギター]])、クリス・クーパー([[ドラムセット|ドラム]])の三人で結成され、当初は初期[[プライマル・スクリーム]]の影響を受けた[[ギターポップ]]バンドとして活動していた。[[1989年]]、[[コンパクト盤|EP]]『Barging Into the Presence of God』でデビュー。この頃から[[ノイズポップ]]的なアプローチが目立つようになる。同年にライヴのみでのギタリストとしてアシュリー・ホーナーが参加し、[[4AD]]と契約
 
[[1989年]]、彼らのロンドンでの始めてのギグを見た[[4AD]]のオーナー、アイヴォ・ワッツ=ラッセルはその場でバンドと契約を結ぶ。同年9月には[[コンパクト盤|EP]]『Barging Into the Presence of God』でデビュー。この頃から[[ノイズポップ]]的なアプローチが目立つようになる。同年、ライヴのみでのギタリストとしてアシュリー・ホーナーが参加。
翌[[1990年]]、プロデューサーに[[ギル・ノートン]]と[[ジョン・フライアー]]を迎えて制作された1stアルバム『狂気のやすらぎ』(原題:The Comforts of Madness)をリリースし、全英チャート40位にランクイン。インディーズチャートでは1位を獲得。アルバムリリース後、元[[ラッシュ (英バンド)|ラッシュ]]のオリジナルメンバーであったメリエル・バーハムがギターボーカルとして加入し、バンドはツインボーカル体制に移行。翌年2月には[[福岡市|福岡]]、[[京都府|京都]]、[[大阪府|大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[東京都|東京]]、[[札幌市|札幌]]をめぐる来日ツアーを果たしている。
 
[[1990年]]2月、プロデューサーに[[ギル・ノートン]]と[[ジョン・フライアー]]を迎えて制作された1stアルバム『狂気のやすらぎ』(原題:The Comforts of Madness)をリリースし、全英チャート40位にランクイン。インディーズチャートでは1位を獲得する。アルバムリリース後、元[[ラッシュ (英バンド)|ラッシュ]]のオリジナルメンバーであったメリエル・バーハムがギターボーカルとして加入し、バンドはツインボーカル体制に移行。210月には[[福岡市|福岡]]EP『Half-Life』をリリースする。表題曲"Half Life Remembered"では当時流行していた[[京都府|京都]]、[[大阪府|大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[東京都|東京]]、[[札幌市|札幌マッドチェスター]]をめぐる来日ツ意識したプロを果チも見られしている
[[1992年]]に2ndアルバム『イン・リボンズ』をリリース。ツインギターになったことで前作よりもノイジーな作風が強まる。その後[[ブー・ラドリーズ]]とのダブルヘッドラインツアーや初のアメリカツアーを敢行するが、[[1993年]]にイアンが脱退。新ベーシストとしてコリーン・ブラウンが加入し、[[1994年]]に3rdアルバム『Slow Buildings』をリリースするが、このアルバムを最後にバンドは自然消滅的に解散。
 
 
翌[[1991年]]にかけては同じ4ADの先輩格である[[ピクシーズ]]のツアーにサポート・アクトとして同行したほか、2月には[[福岡市|福岡]]、[[京都府|京都]]、[[大阪府|大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[東京都|東京]]、[[札幌市|札幌]]をめぐる来日ツアーを果たしている。同年6月、EP『Flesh Balloon』をリリース。[[ナンシー・シナトラ]]のカバーである"Kinky Love"がマイナー・ヒットとなる。
 
[[1992年]]3月に2ndアルバム『イン・リボンズ』をリリース。ツインギターになったことで前作よりもノイジーな作風が強まる。その後[[ブー・ラドリーズ]]とのダブルヘッドラインツアーや初のアメリカツアーを敢行するが、[[1993年]]にイアンが脱退。新ベーシストとしてコリーン・ブラウンが加入し、[[1994年]]に3rdアルバム『Slow Buildings』をリリースするが、このアルバムを最後にバンドは自然消滅的に解散。
 
== メンバー ==