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=== 戦国時代中期~安土桃山時代 ===
岩城氏15代当主・[[岩城重隆]]の代になると、近隣の[[相馬氏]]や[[田村氏]]との抗争が激化し、さらに[[伊達氏]]・[[蘆名氏]]などの新興勢力が多数乱立した上、[[佐竹氏]]との同族化のため、岩城氏の影響力は相対的に立たなくなった。重隆は陸奥[[守護]]・[[伊達稙宗]]と稙宗の婿・[[相馬顕胤]]の圧力を受けて、娘である[[久保姫]]を[[伊達晴宗]]に嫁がせ、その嫡男である[[岩城親隆|親隆]]を養嗣子として迎え、伊達氏との関係を強めた。[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])からの伊達氏の内訌・[[天文の乱]]に際しては[[遠交近攻]]の策をとり、稙宗派の田村氏や相馬氏と争う形になった。親隆の時代には勢力を強めた[[佐竹義昭]]・[[佐竹義重 (十八代当主)|義重]]父子との抗争に苦しめられ、佐竹氏から室を迎えたものの親隆治世の末期と子・[[岩城常隆|常隆]]の代には一時佐竹氏に家中の主導権を握られる状況になった。
常隆の代は父・親隆の実弟である[[伊達輝宗]]とその子・[[伊達政宗|政宗]]が南奥で勢力を増したため、岩城氏もその圧迫に悩まされることになった。政宗の正室・[[愛姫]]は岩城氏の宿敵である田村氏の娘であったため、常隆は伊達氏より離反し佐竹氏との関係を強めるが、政宗が蘆名氏を破って南奥を制覇すると、再び伊達氏と接近した。
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]が勃発すると、岩城常隆は小田原に参陣することで、所領を安堵された。常隆は小田原征伐直後に病死し、子・[[伊達政隆|政隆]]も幼少であったため、佐竹義重の三男・[[岩城貞隆]]が岩城氏を継いだ。