「ブレスト=リトフスク条約」の版間の差分
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== その後 ==
その後、1918年[[11月13日]]には、中央同盟
ブレスト=リトフスク条約により旧ロシア帝国領が大きく割譲されたため、条約を受け入れたボリシェヴィキ政府には左右の立場を問わず国内のあらゆる層から非難が向けられ、ボリシェヴィキも分裂の危機にさらされた。実際、ロシアの国家主義者と一部の革命家はブレスト=リトフスクの講和受諾に激怒し、白軍に加わった。さらにこの争いに乗じて協商国側が干渉し、2年におよぶ[[白軍]]との内乱が続いた([[ロシア内戦]])。またボリシェヴィキがこの条約で失った地域に居住していた非ロシア人は、この条約締結をボリシェヴィキの元から地域を独立させるチャンスであると考えた。また、ポーランドの干渉により[[ポーランド・ソビエト戦争|ポーランド・ソヴィエト戦争]]も行われた。
これらの空白地帯の命運とソ連の西側の国境はこの後の3年半に行われる戦争によって決められた。ポーランド・ソビエト戦争は特に激しい戦闘が行われ、1921年のリガ平和条約によって戦争が終結した。
1920年には[[西ウクライナ]]を除くウクライナの大部分は赤軍の働きとスパイの工作活動によってボリシェヴィキ側に奪回されたが、バルト海沿岸部やポーランドに帰属された広い領域は、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの領土となり、[[第二次世界大戦]]までソ連の手を離れることになった。
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==最初の条約の黙殺==
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