「鍋島茂里」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[永禄]]12年([[1569年]])、[[龍造寺隆信]]の重臣[[石井信忠 (安芸守)|石井信忠]]の嫡男として生まれる。母は大宝院([[石井忠俊]]の娘)。実弟に[[鍋島茂賢]](石井孫六)がいる。母の大宝院は[[鍋島直茂]]の正室[[陽泰院]]の姪であり、[[石井常延]]次女)姪で曾孫にる。
 
[[天正]]7年([[1579年]])、利発な少年であった茂里は、その器量を見込まれて、男子に恵まれなかった鍋島直茂・陽泰院夫妻の養子となった。
 
『[[葉隠]]』によれば、茂里が幼少の頃、直茂とともに、筑後舞『[[羅生門]]』を観賞したが、その感想を直茂に尋ねられた。そのとき、茂里の答えが非常に生意気であった。直茂は、「子どもの分際で、こしゃくなことを申すな」と叱責する一方で、茂里の利発さ認め、養子にすることを決めたという。
 
[[龍造寺政家]]の側衆として仕え、当初は、政家から偏諱を授けられ、「家俊」と名乗った。