「アルバニア決議」の版間の差分

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[[中国大陸]]を統治していた[[中華民国]]([[蒋介石]]率いる[[中国国民党]])は、[[第二次世界大戦]]後に戦勝国として[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理常任理事国]]に選ばれたが、その後[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]との[[国共内戦]]に敗北する形で[[台湾]]に事実上の[[亡命政府|亡命政権]]を樹立した。大陸を実効支配し中華人民共和国の建国宣言を行った中国共産党と、台湾を中華民国として実効支配した[[中国国民党]]は、戦後長らく対立関係のまま、それぞれ内政問題等に忙殺される形で、[[条約]]や[[協定]]のない実質的[[停戦]]状態に至り、分断状態が固定化した。中国大陸(本土)を実効支配する中華人民共和国と、台湾に遷都したものの国連安保理常任理事国である中華民国は、それぞれ着目点によって一方が優勢・他方が劣勢にあったが、双方とも自政府が中国唯一の正統政府であるとの立場を崩さなかった。
 
中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは[[1949年]]11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。[[中ソ対立]]が鮮明となった[[1950年代]]後半以降も[[1964年]]第18回国連総会、[[1968年]]第5回国連緊急特別総会、[[1970年]]第25回国連総会においてもアルバニアなどから類似の提案がなされたが、いずれも否決されている。提起された中華民国の追放については、[[1961年]]の第16回国連総会以降[[国際連合憲章|国連憲章]]18条に示される「重要事項」に指定する「重要問題決議案」が別途共同提出されており(必要な賛成票を過半数から2/3とすることが狙い)、これが可決され続けていたことで阻止されていた<ref name="nhk"/>。転機となったのは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[ベトナム戦争]]において泥沼化し、北ベトナム([[ベトナム民主共和国]])との停戦交渉を進める中で中華人民共和国の協力が必要となったためである。アメリカは中華人民共和国の協力を得るため、国連安保理常任理事国の継承は合意したが、中華民国の国連追放までは考えていなかった。
 
中華人民共和国側は、「中華民国」の国連追放ではなく、「[[蒋介石]]の代表」の国連追放と文面を改め、当時友好国であったアルバニアを経由し「国府追放・北京招請」決議案 (A/L.630) を1971年9月25日に第26回国連総会に提出した。アメリカは、中華民国側に[[国際連合安全保障理事会常任理事国|安保理常任理事国]]のみ辞退し、国連議席を守るいわゆる「二重代表制決議案 (A/L.633)」を国連に提出するが、先に採決されたアルバニア決議案 (A/L.630) が賛成76、反対35、棄権17、欠席3で通過する。表決に先立ち、中華民国代表は“これ以上総会の審議に参加しない”旨宣言し、総会議場から退場した。のち中華民国は国連(及び加盟する各[[専門機関]])からも脱退を宣言する。