「ドースト・ムハンマド・ハーン」の版間の差分

 
== 生涯 ==
[[ドゥッラーニー部族連合]]バーラクザイ部族{{enlink|Barakzai}}出身で、[[カーブル]]の州知事であった[[ムハンマゥッラ・アズィム]]の弟<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326</ref>。当時のアフガー家スタンの王をしたサドーザイ部族の分族ある。サドーザイ朝(狭義の[[ドゥッラーニー朝]])の分族である。サドーザイ朝は部族的支配の国家であり、王は同輩中の第一人者という位置づけであって専制的な支配者ではなく、領土を王族が[[ペシャワール]][[カシミール]][[カンダハール]][[カーブル]]の諸州に分割して統治していた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.325</ref>。[[カーブル]]の統治者だった[[ムハンマド・アズィーム]]の弟<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326</ref>。
 
兄の死後の1826年に兄が没すると、[[ハーン]]を宣言して国家を立てた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326</ref>。1835年からはアミールとなった。なお、サドーザイ朝の王は「シャー」というイラン的な称号を名乗っており<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、「[[アミール]]」というイスラム的な呼称は、シーク教徒やインドのイギリス人に対する宗教意識の現われと見なされている<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>。
 
イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイの[[シュジャー・シャー]]と手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した([[第一次アフガン戦争]])。