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'''大高 源五忠雄'''(おおたか ただお('''忠雄''' げんご [[寛文]]12年([[1672年]])-[[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1703年]][[3月20日]]))は[[江戸時代]]の[[武士]]。名は'''忠雄'''(ただお)。父は[[大高兵左衛門]]。母は[[小野寺十内]]の姉([[貞立尼]])。[[播磨国]][[赤穂藩]]士、金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。[[赤穂浪士]]の一人。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日、主君[[浅野長矩|浅野内匠頭]]が[[江戸城]]松之大廊下で[[吉良義央|吉良上野介]]に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日[[切腹]]、赤穂藩は[[改易]]となった。源五は[[大石内蔵助]]の御家再興の義盟に加わり上方で活動した。[[江戸]]では[[堀部安兵衛]]ら急進派が吉良上野介への仇討ちを強硬に主張しており、源五は内蔵助の命によりその鎮撫のために江戸へ下るが、逆に安兵衛らの意見に同調して仇討ち急進派となった。