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崔東旿が[[中華民国|中国]]に亡命したので、崔徳新は9歳の時に母と共に中国に渡り、父を探して流浪した。[[陸軍軍官学校 (中華民国)|中央陸軍軍官学校]]第10期を卒業した後、国民政府軍事委員会でドイツ語を翻訳し、ほどなく下部部隊の作戦参謀となる<ref name=kan>{{cite news| url =http://mil.huanqiu.com/paper/2012-10/3199044.html| title =揭秘曾是中国军官的韩国前外长投奔朝鲜始末 | author = | newspaper = 環球網| date = 2012-10-18| accessdate = 2014-12-28| language = 中国語}}</ref>。[[光復軍]]が創設されると宣伝課長に就任<ref name=kan/>。[[太平洋戦争]]勃発後に新編第38師新兵営営長、のちに新編第1軍参謀<ref name=kan/>。終戦後は中国軍を退役して光復軍華南韓籍士兵集訓総隊長として武装解除した日本軍から約3千名の朝鮮籍兵士を集め、彼らを引き連れて帰国した<ref name=kan/>。
 
帰国後は、[[1947年]]春に警備士官学校(特別組3期)<ref>1948年8月の大韓民国政府発足後に[[韓国陸軍士官学校|陸軍士官学校]]に改編。</ref>に入学し、僅か2ヶ月で[[南朝鮮国防警備隊]]の[[少尉]]に任官した。その後[[少佐]]に特進し、[[大田広域市|大田]]の第2連隊長に任ぜられた。大田滞在時に[[中佐]]に昇進し、連隊長の任期を終えた後は陸軍士官学校の校長に就任した。この当時の生徒に[[朴正煕]]がいる。その後は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ渡り、[[1949年]]にフォート・ライリーの陸軍幕僚学校(初等軍事組)、[[1950年]]にはフォート・ベニングの陸軍歩兵学校(高等軍事組)をそれぞれ卒業した。帰国後には、[[第1軍団 (韓国陸軍)|第1軍団]]参謀長、[[第8機械化歩兵師団 (韓国陸軍)|第8師団長]]を歴任。1950年10月から第11師団長として後方のゲリラ討伐を担当。この時、崔徳新は[[堅壁清野]]戦術を実行した。1951年2月には、第11師団は[[居昌良民虐殺事件]]や[[山清・咸陽良民虐殺事件]]を行った<ref name="ohmynews20000516">{{cite news
| url = http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000007696
| title = 산청 시천면 양민학살, 어떤 사건인가? 아녀자, 어린이 대부분...알려진 산청 함양사건과는 별개(山清シチャン面良民虐殺、どんな事件か?婦女子、子どもたちのほとんど...知られている山清・咸陽とは別個)
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現在、遺体は愛国烈士陵に埋葬されている。
 
== 年譜 ==
* 1936年 - 中央陸軍軍官学校卒業