「蟹満寺」の版間の差分

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:本像の伝来については記録がなく、当初から現在地に安置されていたのか、他所から移座されたのかを含め、確かなことは不明である。寺伝では本像は綺田の東方山中にあった浄土宗の大寺院・光明山寺から移されたものとする。これに対し、足立康は、本像は井堤寺(いでじ)にあったものとした。井堤寺は現在の[[綴喜郡]][[井手町]]にあり、同地にあった[[橘諸兄]]の別業に付属した寺院である。足立説ではこの井堤寺を光明寺とも号したことから、前述の光明山寺と混同されたのではないかとする。他に蟹満寺像の旧所在については、山城国分寺にあったとする説(杉山二郎)、高麗寺(木津川市[[山城町上狛]]に跡がある)にあったとする説(角田文衛)などがある<ref>『浄瑠璃寺と南山城の寺』(日本の古寺美術18)、pp.180 - 186</ref>。2005年に実施された蟹満寺境内の発掘調査では本像の台座は創建時から動いていないとされ、本像は1300年間動いていないとされた。しかし、2008年の木津川市教育委員会による再調査で、台座下には江戸時代の地層があり、台座も江戸時代の墓石を転用したものであることが判明した<ref>[http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20080319000534 「1300年不変揺らぐ? 京都・蟹満寺の国宝坐像」(四国新聞社、2008年3月19日)]</ref>。
 
上記の本堂改築に伴い、本像も詳細な学術調査が行われ幾つかの発見があった。まず、本像の重量はは2172kgで、薬師寺像の4947kg(袈裟を含む)と比べてずっと軽く、銅厚が主要体部で2~3mmと非常に薄い。また、鋳掛けにより顔立ちを修整しているのも新知見である。また本像の制作方法は、分割型鋳造法か分割しない蝋型鋳造法か議論があったが、本調査により土型で作られた可能性が浮上している<ref>三船温尚 奥健夫監修 蟹満寺釈迦如来坐像調査委員会著 『国宝 蟹満寺釈迦如来座像―古代大型金銅仏を読み解く―』 [[八木書店]]、2011年12月15日、ISBN 978-4-8406-2083-3。</ref>。
 
== 脚注 ==