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'''丸田 祐三'''(まるた ゆうぞう、[[1919年]][[3月30日]] - [[2015年]][[2月17日]])は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。九段。[[平野信助]]七段門下。棋士番号43。[[長野県]][[長野市]]出身<ref>{{cite web|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/43.html|title=棋士データベース 九段 丸田祐三|accessdate=2017-07-02|date=|publisher=[[日本将棋連盟]]公式サイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702083914/https://www.shogi.or.jp/player/pro/43.html|archivedate=2017-07-02}}</ref>。[[日本将棋連盟]]会長
== 経歴 ==
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[[1961年]]の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年<ref name="maruta3">{{Cite web|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/43.html|title=棋士データベース 九段 丸田祐三|accessdate=2017-06-26|publisher=日本将棋連盟}}</ref>。
勝ち抜き戦の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]では1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している<ref>{{Cite web |date=2015-02-18 |url=https://www.shogi.or.jp/match/nhk/ |title=
[[2015年]]2月17日の夜、多臓器不全による肺炎
</ref><ref>{{cite web|url=http://www.sankei.com/west/news/150218/wst1502180024-n1.html|title=【訃報】元日本将棋連盟会長の丸田祐三氏が死去|accessdate=2017-08-07|date=2015-02-18|publisher=[[産経新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160327011104/http://www.sankei.com/west/news/150218/wst1502180024-n1.html|archivedate=2016-03-27}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/articles/ASH2K5TYTH2KUCLV011.html?iref=comtop_6_06|title=棋士の丸田祐三さん死去 77歳まで現役 最年長記録|accessdate=2017-08-07|date=2015-02-18|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150218031121/http://www.asahi.com/articles/ASH2K5TYTH2KUCLV011.html?iref=comtop_6_06|archivedate=2015-02-18|deadlinkdate=2017-08-07}}
</ref>
== 記録 ==
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==棋風 ==
* [[歩]]の使い方が巧みであり、「小太刀の名手」と呼ばれた<ref name="maruta1">{{Cite web
* 「丸田流ひねり飛車(9七角ひねり飛車)」を創案した<ref name="maruta1" />。[[河口俊彦]]は「不朽の定跡」と評している<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その12">{{Harvnb|河口|2013|p=|pp=64-71|loc=小太刀の名手-丸田祐三その2}}</ref>。
* [[加藤一二三]]は、丸田は棋理に明るく、作戦巧者だと評している<ref name=
* [[先崎学]]は、順位戦B級1組在籍中の丸田の将棋について、負けるときはあっさり投げるが、勝ち目が残っている時は粘り強く指して最後は勝ちをものにしていた、(棋士から見て)上品な粘り方をするのが特徴だった、と評している<ref name="うららかな春の日">{{Harvnb|先崎|9997|loc=うららかな春の日|p=46-53}}</ref>。
* 同じく先崎は、丸田の将棋は「ひねり飛車」「歩の使い手」「棋理に明るい」といった形容がされるが、と前置きした上で、先崎が丸田と対局した時の印象として、駒がぶつかった瞬間に思いもかけぬ手を指され、一気に形勢が丸田に傾いたことを述べ、中盤における柔軟な発想を丸田の特徴に挙げている<ref name="うららかな春の日" />。
* [[1961年]](昭和36年)度の名人戦(大山康晴名人に挑戦して1勝4敗で敗退)の第4局(丸田が勝利)について、記録係を務めた[[河口俊彦]]は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|pp=101-102}}</ref>。
== 将棋連盟理事 ==
* A級に昇ると、すぐに日本将棋連盟(1947年4月までは「将棋大成会」<ref name="三十八歳で引退を決断">{{Harvnb|加藤治郎、原田泰夫|1999|pp=62-64|loc=三十八歳で引退を決断(加藤)}}</ref>)の経理担当の理事に就任し<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その12" />{{Refnest|group="注釈"|丸田がA級に昇級したのは1948年<ref name=":3" />。}}、以後、連盟理事を長年にわたって務めた<ref name=":1">{{Cite web|url=http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|title=追悼・丸田祐三九段 王座戦半世紀共に歩む|accessdate=2017-06-26|author=|date=2002-09-13|publisher=日本経済新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707063048/http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|archivedate=2017-07-07}}</ref>。会長を1969年5月から1973年5月まで4年間務めた<ref>{{cite web|url=https://www.shogi.or.jp/about/history.html|title=将棋連盟について|accessdate=2017-08-07|date=|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170806191913/https://www.shogi.or.jp/about/history.html|archivedate=2017-08-06}}</ref>。
* 1951年(昭和26年)度の第1期王将戦第5局で[[陣屋事件]]が発生した際、日本将棋連盟の理事であった丸田は、対局の立会人でもあった<ref>{{Harvnb|加藤|1987|p=108|pp=|loc=「陣屋事件」を報じた毎日新聞(王将戦主催社)の記事(1952年2月18日夕刊)}}</ref><ref name="=「陣屋事件」の真相‐ 積もった不満が爆発">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=288‐290|loc=「陣屋事件」の真相‐積もった不満が爆発}}</ref>。{{See|陣屋事件}}
* 連盟の運営に長く携わった丸田であるが、酒を一切飲まず、宴席を好まなかった<ref name=":2">{{Cite journal ja-jp|author=[[前田祐司]]|year=|title=言い訳をしたい棋譜|journal= 将棋世界|serial=2016年11月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=160-161}}</ref>。
* 口の堅さを棋士たちから信頼されていた。棋士のプライバシーを知り得る立場にあったが、決して漏らすことがなかった。<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その12" />
*
* 加藤一二三は、丸田は公平無私の人柄をもって理事・会長の職務を遂行しており、大きな支持を得ていた、と評している<ref name="丸田祐三九段との思い出-加藤一二三" />。
*棋士の給料算定に「点数」を反映するシステムを作り上げた<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その12" />。この「点数」とはタイトル獲得やA級在籍期数といった「顕著な実績」を反映するものであり、「顕著な実績」を挙げた棋士ほど、引退するまで給料が下がりにくくなった<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その12" />。この丸田が作り上げた給料算定システムは非常に複雑で、完全に理解していた者は丸田の他に一人しかいなかったという<ref>{{cite web|url=http://www.nikkei.com/article/DGXKZO83445950Q5A220C1MM8000/|title=春秋 2015年2月20日付|accessdate=2017-04-24|date=2015-07-20|publisher=[[日本経済新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221002120/http://www.nikkei.com/article/DGXKZO83445950Q5A220C1MM8000/|archivedate=2016-02-21}}</ref>。
* 河口俊彦は、丸田が官庁に入っていれば、必ずや幹部に昇進しただろう、と評している<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|p=110}}</ref>。
== 人物 ==
* 弟子に[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段がいる。
* [[大山康晴]]と親しかった<ref name=
*出身地である[[長野市]]の、[[ながの東急百貨店]]で長年にわたって開かれていた「ながの東急将棋まつり」の運営を取り仕切っていた。1978年に出演した前田祐司によると、「ながの東急将棋まつり」は、数ある将棋まつりの中でも別格の存在(出演棋士が人気棋士に限られ、出演料が高い)であったという。<ref name=":2" />
* 抜群の記憶力の持ち主で、[[棋譜]]を覚える他にも、[[麻雀]]の牌を裏の模様で半分以上覚えたという逸話があるが、本人によると一半荘で覚えられるのは十枚程度であり、またそれは当時の竹牌が粗悪だったからだとのことである<ref>{{Harvnb|先崎|2003|loc=将棋指しの麻雀|pp=133-135}}</ref>。
* 写真家・[[丸田祥三]]の父。丸田に祥三の話をすると、常に上機嫌になったという。<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その1" />
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==参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=加藤 |first=治郎 監修 |authorlink=加藤治郎 |year=1987 |title=[写真で見る]将棋昭和史 |edition= |publisher=毎日コミュニケーションズ}}
* {{Cite book|和書|author=加藤治郎|authorlink=加藤治郎|author2=原田泰夫|authorlink2=原田泰夫|title=[証言]将棋昭和史|date=|year=1999|publisher=毎日コミュニケーションズ|others=(執筆)田辺忠幸|isbn=}}
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2003 |title=大山康晴の晩節 |volume= |publisher=飛鳥新社}}
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2013 |title=最後の握手 昭和を創った15人のプロ棋士 |volume= |publisher=マイナビ}}
* {{Citation |和書 |last=先崎 |first=学 |authorlink=先崎学 |year=1997 |title=世界は右に回る - 将棋指しの優雅な日々|volume= |publisher=日本将棋連盟}}
* {{Citation |和書 |last=先崎 |first=学 |authorlink=先崎学 |year=2003 |title=まわり将棋は技術だ - 先崎学の浮いたり沈んだり 2 |volume= |publisher=文藝春秋}}
* {{Citation |和書 |last=升田 |first=幸三 |authorlink=升田幸三 |year=2003 |title=名人に香車を引いた男 升田幸三自伝 |edition= |publisher=中央公論新社(中公文庫)}}
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