「パヴィアの戦い」の版間の差分

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|strength2= 歩兵 19,000<br>騎兵 4,000<br>大砲 17門<ref name= guns />
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[[ファイル:Battle of Pavia 1525.PNG|サムネイル|Battle of Pavia 1525.PNG]]
'''パヴィアの戦い'''(パヴィアのたたかい)は、[[イタリア戦争]]における戦いの一つ。[[1525年]]2月に[[ロンバルディア]]([[イタリア]])の[[パヴィーア]]城で行われた。名目上[[シャルル・ド・ラノイ]]が指揮するスペイン=帝国連合軍(そして[[アントニオ・デ・レイバ]]が指揮するパヴィア駐屯軍)と合同して戦ったが、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が直接指揮したフランス軍を、パヴィア城外のミラベッロにある広大な狩猟場で攻撃した。
'''パヴィアの戦い'''(パヴィアのたたかい)は、[[イタリア]]の覇権を巡って[[ハプスブルク家]]([[神聖ローマ帝国]]・[[スペイン]])と[[ヴァロワ朝|ヴァロワ家]]([[フランス王国|フランス]])が15世紀末から半世紀以上に渡って争った[[イタリア戦争]]における戦いの一つ。[[1525年]]2月にイタリア[[ロンバルディア]]の[[パヴィーア]]城外のミラベッロにある広大な狩猟場で、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]軍とスペイン王兼神聖ローマ帝国皇帝[[カール5世]]軍が争った戦い。スペイン・神聖ローマ帝国連合軍側は[[ナポリ]]総督[[シャルル・ド・ラノイ]]が名目上指揮し(実質上の指揮は第6代[[ペスカーラ]]侯爵[[アルフォンソ・ダヴァロス]])、[[アントニオ・デ・レイバ]]が指揮するパヴィア駐屯軍と合同で、フランソワ1世が直接指揮するフランス軍を攻撃し、勝利した。
 
4時間30分の戦いで、皇帝軍は[[小銃]]と[[パイク]]を組み合わせて効果的に戦い、フランス軍は分断され総崩れとなった。フランス側は、有力貴族のそれぞれの長を含む多数の犠牲者を出した。フランソワ1世自身もスペイン軍の捕虜となり、カール5世によって投獄され、重要な領域をカールに引き渡すという内容の屈辱的な[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]に署名させられた。
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王の義兄で[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン家]]最後の男子であったアランソン公[[シャルル4世 (アランソン公)|シャルル4世]]は、帰国後に責任を糾弾され、同年に死去してアランソン家は断絶した。
 
== 背景 ==
[[第三次イタリア戦争]]を参照。
 
== 経過 ==
カール5世が領有を主張する[[ミラノ]]を攻撃し失敗したフランソワ1世は主力軍をイタリアから撤退させたが、1524年、ナポリ総督ラノイ率いる神聖ローマ帝国連合軍は北部イタリアに分散していた残存フランス軍を掃討し、さらに2万の兵でフランス南部の[[プロヴァンス]]に侵攻した<ref name=matsumura>[https://books.google.co.jp/books?id=1LWWH21q9qMC&pg=PT92 パヴィアの戦い]『勝利を決めた名将たちの伝説的戦術』松村劭、PHP研究所, 2010</ref>。これに対しフランソワ1世は4万の兵を南下させて帝国軍をフランスから撤退させ、さらにイタリアに進撃した<ref name=matsumura/>。ミラノで疫病が流行中だったため、ラノイはミラノ南方のパヴィア城まで後退したがその間に多くの兵力を失い、追尾するフランス軍に対し、一部を城に残し、主力を東南に撤退させた<ref name=matsumura/>。フランス軍は城を包囲したが、フランソワ1世は軍を二分し、一部を[[スコットランド]]のオールバニー候スチュアートに指揮させて[[ナポリ王国]]征服に向かわせ、さらに[[スイス傭兵]]軍の一部が前線を離れたこともあり、フランス軍の兵力は2万に減少した<ref name=matsumura/>。一方、帝国軍は増援し、城に残った味方を支援するため2万の兵を率いてパヴィアに戻った<ref name=matsumura/>。
 
城塞を包囲したフランス軍は、城内に残る敵の食料が尽きるの待ち、持久戦となっていた<ref name=drama>[http://dramatic-history.com/karl5/karl5-7.htm 第7話  イタリア征服を再び狙ったフランソワ1世、激闘のパヴィーアの戦いで捕虜となる]どらまちっく・ひすとりー</ref>。そこへ帝国軍の再編成部隊が駆け付けるが、中央集権化が早くから進み国王のために命をかけ働くという体制の整ったフランス軍と違い、傭兵や農民兵を主力とする帝国軍は長期戦となると士気が下がって総崩れとなる怖れがあったため、実質的な指揮官だったペスカラ公は短期決戦を決断し、城外の小河を迂回して一翼から包囲する奇襲作戦を1525年2月24日未明に決行、背後からの急襲に驚いたフランス軍は死者1万人を出し敗退した<ref name=drama/><ref name=matsumura/>。
 
== 参照 ==