「ジョージ・バーナード・ショー」の版間の差分

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=== 批評家活動 ===
1871年に学校を卒業してダブリンの土地仲介業者のもとで働き、有能さを発揮した。[[ロンドン]][[音楽]]教師として働き始めていた母と姉たちを追って1876年にロンドンへ出たが、母と親しい音楽評論家の[[ゴーストライター]]などの文筆による稼ぎはわずかで、父からの仕送りと母の[[収入]]に頼って生活しながら、[[大英博物館]]や[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|国民美術館]]に通って知識を広めた。1882年に[[ヘンリー・ジョージ]]の講演を聴いたのがきっかけで[[社会主義]]に傾倒し、1884年に[[フェビアン協会]]が設立されるとただちに入会して、[[シドニー・ウェッブ]]夫妻らとともに実行委員、パンフレット作成、講演などに活躍した。
 
一方で、小説の執筆を1879年から続けていたが、認められることはなかった。1884年に社会主義雑誌『''Today''』が発刊されると「非社会的社会主義者」 (''An Unsocial Socialist'') 、「カシュル・バイロンの職業」(''Cashel Byron's Profession'') が連載され、1887年に宣伝雑誌『''Our Corner''』に「不合理の縁」(''The Irratinal Knot'') 、「芸術家の恋」(''Love Among the Artist'') が掲載され、[[ウィリアム・アーチャー]]、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|スティーヴンソン]]、[[ウィリアム・モリス]]などに才能を認められた。