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[[ヘンリー・ハドソン]]は1610年8月、イギリス船ディスカバリー号(Discovery)でこの海域に達した。彼はイギリスやオランダの支援を受けながら三度にわたり北米大陸を迂回するアジアへの最短航路([[北西航路]])を見つけようとしたが、四度目の航海でついにグリーンランドの西海岸に出てハドソン湾まで達することができた。彼は湾内の地図製作や測量を行ったが、冬になると氷に閉じ込められ、ジェームズ湾で越冬した。春になって氷が解け始めると彼は西への航海を再開しようとしたが、厳しい航海と少ない備蓄に不満を募らせていた船員は1611年6月22日に反乱を起こし、ハドソンとその部下らは食料なしの小船で置き去りにされそのまま行方知れずとなった。
 
[[ファイル:Wpdms ruperts land.jpg|thumb|right|frame350px|[[ルパート・ランド、ハドソン湾およびその流域全土にあたる]]]]
60年後の[[1668年]]にイギリス船ノンサッチ号(Nonsuch)が湾内に入り、沿岸のクリー系民族らと[[ビーバー]]の[[毛皮]]を交易することに成功した(それまでハドソン湾沿岸の良質の毛皮は、先住民同士の交易で南へ渡り、[[五大湖]]周辺で活動する[[フランス]]商人が独占的に扱っていた)。これがきっかけで[[1670年]]に[[ハドソン湾会社]](Hudson's Bay Company)が成立した。ハドソン湾会社は、ハドソン湾および湾に流れ込む河川の流域全土([[ルパート・ランド]] Rupert's Land)における交易の独占を勅許された。フランスはこれに対し何度も軍隊を送り対抗したが、[[1713年]]4月の[[ユトレヒト条約]]でルパート・ランドに対する主張を放棄した。