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一次資料である「中論」を無出典で解釈した注釈を除去。導入部にて二諦などの語義を曖昧にしている文言を削除し、文の前後を移動。
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'''二諦'''(にたい、{{lang-sa-short|satya-dvaya}}, '''サティヤ・ドヴァヤ''', {{lang-sa-short|dve satye}})<ref name="ib787">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか |authorlink= |coauthors= |date=2002 |title=岩波仏教辞典 第二版 |publisher=岩波書店 |page=787-788 |isbn=}}</ref>とは、[[仏教]]において真諦と俗諦のこととされ<ref name="sb1097-1100" />{{efn|[[諦]]({{lang-sa-short|satya}})は、「正しいこと」真や真理を意味する<ref name="ib787" />。}}。真諦と俗諦をあわせて'''真俗二諦'''という<ref name="sb1097-1100">総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、1097-1100頁。</ref>、何をもって二諦とするかも含めて諸説ある<ref name="sb1097-1100" />。
{{一次資料|date=2017年5月}}
'''二諦'''(にたい、{{lang-sa-short|satya-dvaya}}, '''サティヤ・ドヴァヤ''', {{lang-sa-short|dve satye}})<ref name="ib787">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか |authorlink= |coauthors= |date=2002 |title=岩波仏教辞典 第二版 |publisher=岩波書店 |page=787-788 |isbn=}}</ref>とは、[[仏教]]において真諦と俗諦のこととされ<ref name="sb1097-1100" />、真諦と俗諦をあわせて'''真俗二諦'''というが<ref name="sb1097-1100">総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、1097-1100頁。</ref>、何をもって二諦とするかも含めて諸説ある<ref name="sb1097-1100" />。
 
[[諦]]({{lang-sa-short|satya}})は、「正しいこと」、真や真理を意味する<ref name="ib787" />。真諦は[[勝義諦]]や第一義諦ともいって出世間的真理を指すことがあり<ref name="sb1097-1100" />、俗諦は世俗諦や世諦ともいって世間的真理を指すことがあるが<ref name="sb1097-1100" />。ただし、真諦および俗諦の意味は緒経論において種々であ<ref name="sb1097-1100" />、二諦が何を指すかについても後述のとおり諸説がある
 
== 概要 ==
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*(10) 世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、[[ニルヴァーナ]]を体得することはできない。
*(11) 不完全に見られた[[空 (仏教)|空]]は知慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた[[ヘビ|蛇]]あるいは未完成の[[呪術|咒術]]のごとくである。
*(12) それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ。
*(12) それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ<ref>この一文は、釈迦が悟りに至った後、説法(転法輪)を開始するまでに、「この深遠な内容を理解できる者がこの世にいるのか、凡夫を害するといけないから説かない方がいいのではないか」と躊躇した「[[梵天勧請]]」のエピソードを指しているとも解釈できるし、「凡夫を害するといけないから、釈迦は深遠な真理(勝義諦)を世俗の表現でそのまま直接示そうとはせず、世俗の立場での真理(世俗諦)としての[[四聖諦]]・[[四向四果]]・[[三宝]](仏法僧)等を、方便として説いてきた」という主張として解釈することもできる。{{要出典|date=2017-06-07|title=}}</ref>。
|『中論』24:8-12<ref name="n379">[[中村元]] 『龍樹』 講談社、講談社学術文庫、2005年7月、379-380頁。</ref>}}
 
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[[末法灯明記]]には、二諦の意味を転用して、[[仏法]]を真諦とし[[王法]]を俗諦とする記述があり、[[浄土真宗]]はこの説を受けて、[[宗教]]的信仰([[安心]])の面を真諦とし、世間的[[道徳]]の面を俗諦とする<ref name="sb1097-1100" />。
 
== 脚注・出典 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[四諦]]
*[[説仮部]]