「自主映画」の版間の差分

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映画が発明されたばかりの19世紀末から20世紀初頭にかけては、興業としての映画は未成熟であり、自主映画と商業映画(劇場映画)の境界は存在していなかったといえる。初期の映画は主に記録と報道のために用いられていたが、この時代から個人でカメラを所有し、フィルムを購入できる富裕層の中に、自分の周囲の生活や各種行事、また町村の風景等を撮影する者が存在した。これが自主映画の始まりといえる。現在、映像[[アーカイブ]]として保存されている明治・大正期の映像の中には、当時のアマチュア映画愛好家が撮影したフィルムも多い。当初は主に[[16ミリフィルム]]が使われていたが、大正末期に[[写真フィルム|9.5ミリ]]が登場し、昭和7年([[1932年]])にはさらに高画質・低価格の[[8ミリ映画|8ミリ]]フィルムが登場すると、個人による映画撮影が手軽になるとともに、16ミリや35ミリのフィルムで撮影される劇映画や[[ニュース映画]]のような商業映画との境界が明確になり、「小型映画」「家庭映画」と呼ばれる自主制作映画の概念が成立していった。
 
第二次大戦後、[[8ミリ映画|8ミリ]]カメラやフィルムが安価かつ高性能になると、アマチュアが街や野山に出てロケをしたり、地域での日常生活を長期にって撮影したりすることが可能になる。その結果、野生の動植物の生態や、貴重な伝統行事や伝統産業などの記録、身体障害者の日常生活や、被爆者など戦争体験者の証言の記録などの社会問題の提起など、商業映画では制作困難な映画作品がアマチュアの手で作られるようになる。1960年代には[[大林宣彦]]、[[高林陽一]]が作品を発表している。
 
1970年代に入ると、1965年に提供開始された向汎用の8mm映画システムの[[シングル8]]・[[スーパー8]]が、一般的な家庭でもホームムービー用に使用される様になり、そのカメラなどの機材を使用して、学生世代による若い感性の自主映画が次々と発表されていった。ここには、情報誌「[[ぴあ]]」や「[[ぴあフィルムフェスティバル]]」、[[新文芸坐|文芸坐]]や[[上板東映]]などの[[名画座]]による、自主映画への制作・公開への支援や媒介として作用した事も、自主映画が拡大する要因であった。