「丸田祐三」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
出典表示の間違いを修正。「1946年に四段となり、2年後の1948年にA級八段に昇ったのは最短昇段記録である」の出典は、将棋世界2015年5月号の丸田追悼特集。
m →‎人物: 出典表示の位置を調整。
65行目:
* 弟子に[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段がいる<ref name="将棋世界2015年5月号-丸田追悼特集" />。
* [[大山康晴]]と親しかった<ref name=":4" />。丸田-大山の対戦成績は丸田側から見て25勝45敗1[[持将棋]]、対大山戦の勝率では[[二上達也]]や[[内藤國雄]]を上回っている。
*出身地である[[長野市]]の、[[ながの東急百貨店]]で長年にわたって開かれていた「ながの東急将棋まつり」には創設当初から関与し、晩年まで運営を取り仕切っていた<ref name="将棋世界2015年5月号-丸田追悼特集" />。1978年に出演した前田祐司によると、「ながの東急将棋まつり」は、数ある将棋まつりの中でも別格の存在(出演棋士が人気棋士に限られ、出演料が高い)であったという<ref name=":2" />
* 抜群の記憶力の持ち主で、[[棋譜]]を覚える他にも、[[麻雀]]の牌を裏の模様で半分以上覚えたという逸話があるが、本人によると一半荘で覚えられるのは十枚程度であり、またそれは当時の竹牌が粗悪だったからだとのことである<ref>{{Harvnb|先崎|2003|loc=将棋指しの麻雀|pp=133-135}}</ref>。
* 写真家・[[丸田祥三]]の父。丸田に祥三の話をすると、常に上機嫌になったという。<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その1" />