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フランス南西部の都市・[[ボルドー]]での軍事裁判を前にした[[1953年]][[7月12日]]、生存していた兵士約200人のうち65人を対象にした審理が開始された。当時、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に居住していた者はフランスに引き渡されなかったため出廷したのはわずか21人でその内訳はドイツ人7名、残りの14人は[[アルザス地域圏|アレマン人]]([[マルグレ=ヌー]])であった。アレマン人たちは1人を除いて、自分たちは意志に反してSSに徴集されたと主張した。だが、SSの記録によればそのような強制徴集の事実はなく、ナチスに対し共感をもっていた彼らが自発的に参加した可能性が高い。<!--↓この段落は自信なし-->フランス当局の見解は2つに割れていたが[[1954年]][[2月11日]]、20人の被告に対し有罪が言い渡された。これに対しては大論争が巻き起こったため、[[2月19日]]にフランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされた。その後、時をおかずしてアレマン人は釈放された。
 
[[1958年]]までにドイツ人被告も同様に全員釈放された。レジスタンスに対する攻撃命令を下したダスライヒ指揮官{{仮リンク|[[ハインツ・ラマーディンク|de|Heinz Lammerding}}グ]]は戦後企業家として成功し、一度も起訴されることなく[[1971年]]に死去した。
 
武装親衛隊に対する最後の公判は[[1983年]]に行われた。その少し前、SS中尉{{仮リンク|ハインツ・バールト|de|Heinz Barth}}が[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](当時)領内で捕らえられた。バールトはオラドゥールでの虐殺に小隊指揮官として参加し、45名の兵を率いていた。彼は男性20名に対する射撃指示をだしたとされ、ベルリンにある裁判所で終身刑を言い渡された。[[1997年]]、バールトは統一後の[[ドイツ]]で釈放された。