「吉備真備」の版間の差分

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[[霊亀]]2年([[716年]])[[遣唐使|遣唐留学生]]となり、翌[[養老]]元年([[717年]])に[[阿倍仲麻呂]]・[[玄ボウ|玄昉]]らと共に入唐した。帰路では[[種子島]]に漂着するが、[[天平]]7年([[735年]])に多くの[[典籍]]を携えて帰朝した。[[唐]]では[[経書]]と[[史書]]のほか、[[天文学]]・[[音楽]]・[[兵学]]などを幅広く学び、帰朝時には[[経書]](『唐礼』130巻)、天文暦書(『[[大衍暦|大衍暦経]]』1巻、『大衍暦立成』12巻)、[[日時計]](測影鉄尺)、[[楽器]](銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、[[弓 (武器)|弓]](絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、[[矢]](射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『[[東観漢記]]』をもたらした。
 
帰朝後は[[聖武天皇]]や[[光明皇后]]の寵愛を得て、天平7年(735年)中に[[従八位|従八位下]]から一挙に10階昇進して[[正六位|正六位下]]に、天平8年に([[736年]])[[外位|外]][[従五位|従五位下]]、天平9年に([[737年]])従五位上に昇叙されるなど、急速に昇進する。翌天平10年([[738年]])に[[橘諸兄]]が[[右大臣]]に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉とともに重用され、真備は[[近衛兵#令制の五衛府|右衛士督]]を兼ねた。天平11年([[739年]])8月母を葬るとされる<ref name="楊貴氏墓誌"/>。天平12年([[740年]])には、真備と玄昉を除かんとして[[藤原広嗣]]が[[大宰府]]で反乱を起こす([[藤原広嗣の乱[]])。翌天平13年([[741年]])に[[東宮学士]]として[[皇太子]]・阿倍内親王(後の[[孝謙天皇]]・称徳天皇)に『[[漢書]]』や『[[礼記]]』を教授した。その後、天平15年([[743年]])には[[従四位|従四位下]]・[[春宮坊|春宮大夫]]兼春宮学士に叙任され、天平18年([[746年]])には吉備[[朝臣]]の姓を賜与され、天平19年([[747年]])に[[京職|右京大夫]]に転じて、[[天平勝宝]]元年([[749年]])には従四位上に昇った。
 
孝謙天皇[[即位]]後の翌天平勝宝2年([[750年]])には[[藤原仲麻呂]]が専権し、[[筑前国|筑前守]]次いで[[肥前国|肥前守]]に[[左遷]]される。天平勝宝3年([[751年]])には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年([[752年]])に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝5年([[753年]])に、[[鑑真]]と同じく[[屋久島]]へ漂着、さらに[[紀伊国|紀州]][[太地町|太地]]に漂着後、無事に帰朝する。