「ジュゼッペ・ガリバルディ」の版間の差分

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シチリア島での進軍を終え、義勇軍はナポリ艦隊の勢力下である[[メッシーナ海峡]]を渡った。ガリバルディの進軍は地元のレジスタンスに歓迎され、[[9月7日]]には[[ナポリ]]へと入城することができた。しかし彼はナポリを支配する[[シチリア・ブルボン朝|ブルボン家]]の王[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]]の身柄は保証した。シチリア軍のほとんどは依然として王党派であり、シチリアからナポリにかけて各地で吸収したガリバルディの義勇軍も25,000人に膨れ上がっていたため、彼らの意向を無視できなかったからである。10月1日から2日にかけて、[[ヴォルトゥルノ]]での主要な戦いが勃発したが、戦闘の大部分は[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]指揮下のサルデーニャ軍に任された。
 
ガリバルディは[[サルデーニャ王国]]の首相[[カミッロ・カヴール|カヴール]]に対して、深い嫌悪感を抱いていた。彼はカヴールの実用主義的、現実主義的政策を信用せず、また自らの生まれ故郷ニースをフランスに割譲した外交政策に対して、個人的な恨みすら抱いていた。しかし一方で、ガリバルディはサルデーニャによるイタリア統一に魅かれ始めていた。[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]との有名な会談(「{{仮リンク|テアーノの握手|it|Incontro tra Giuseppe Garibaldi e Vittorio Emanuele II}}」として有名、[[1860年]][[10月26日]])ではガリバルディはエマヌエーレ2世に対し、イタリアの王として挨拶し、握手した。そしておもむろに全軍に対して「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。彼は次の日には一言「陛下、あなたに従います」とだけ言葉を残し、軍の職を辞した。彼が占領した地域は全てヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上され、イタリア統一は大きな軍事的衝突を回避する形で成就した(ここでガリバルディがヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と敵対する道を選んでいれば、日本の[[戊辰戦争]]のような内乱に発展し、イタリア統一は大きく遅れていた可能性がある)。[[11月7日]]には彼の働きに対するどんな見返りも断りつつ、[[カプレーラ]]へと退いた。
 
====ローマ問題====