「伊那電気鉄道の電車」の版間の差分

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車体は全長16m級のモニタールーフを持つ木造車で、車体の半分が郵便室(荷重3t)、その次位に荷物室(荷重1t)、後位側は三等室で定員は32人(うち座席16人)である。便所は、前位側と後位側の車端部に2か所設けられており、三等室は便所の位置の関係で左右で扉の位置がオフセットされている。台車は釣合梁式のTR10、自重は25tである。
 
1937年の三信鉄道全通により[[豊橋駅|豊橋]] - 辰野間の直通運転が開始されたのに伴い、本形式は直通運転用に使用された<ref>天竜峡を境に南側は直流1500V、北側は直流1200Vと電化方式が異なっていたため、電動車の直通ができず、付随車が直通運転用に使用された。また、郵便物逓送の任務もあり、合造車が使用された。</ref>。国有化後は[[豊橋運輸区|豊橋機関区]]に転属し、引き続き直通運転用に使用されたが、この間の[[1945年]](昭和20年)2月に、サハユニフ100が土砂崩れにより宇連川に転落して廃車となっている。
 
本形式は、飯田線北部の1500V昇圧にともなって営業運転から退き、[[1952年]](昭和27年)に[[救援車]]に改造され、妻面に[[観音開き]]式の扉が設けられた。翌年6月の改番では、'''サエ9320形'''(9320, 9321)に改称され、9320は中部天竜機関支区、9321は豊橋機関区の配置となった。豊橋の9321は[[国鉄クエ28形電車|クエ28形]]の就役に伴って[[1964年]](昭和39年)に廃車となったが、中部天竜の9320はさらに長命を保ち、[[1979年]](昭和54年)まで在籍して、国鉄最後の木造電車となった。
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1929年に製造された半鋼製で丸屋根を持つ車体長16m級の三等荷物合造付随車である。汽車製造東京支店で3両(サハニフ400 - 402)、日本車輌製造東京支店製の2両(サハニフ403, 404)の計5両が製造された。両者は基本的には同形同大であるが、細部に違いがある。側面窓配置は、1D(荷)4D6D3で、荷物室の荷重は2t、三等室の定員は90人(うち座席48人)で、三等室の扉間にはボックスシートが6組配置されている。自重は25t。
 
国有化後は、伊那松島機関区にあって従来同様後付付随車として使用されたが、1952年6月に運用の合理化のため400と401が荷物室を運転室に転用して制御車化され、記号が「クハ」となっており、翌年の車両形式称号規程改正により'''クハ5900形'''(5900, 5901)に改められた。両車は[[1958年]](昭和33年)2月および3月に[[プロトタイプ|試作]][[交直流電車|交流直流両用電車]]の電源車として改造され、屋根上に交直両用のパンタグラフ・空気遮断器・交直切替器を、床下に主変圧器・[[水銀整流器]]・交直切替器・直流リアクトルをそれぞれ搭載して<ref>JTBパブリッシング『415系物語』2015年 19-25項</ref>、[[国鉄72系電車#クモヤ491形→クモハ491形|72系]]モハ73034, モハ73050とユニットを組み<ref>この「M-Tp(pはパンタグラフ)」システムは[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[JR西日本681系電車|681系]]、[[JR西日本683系電車|683系]]、[[JR西日本521系電車|521系]]の交直流電車で採用されている。</ref> 作並機関区に転属、[[仙山線]]の仙台 - 作並間の[[交流電化]]区間と作並 - 山寺間の[[直流電化]]区間を直通する試験に供された。1959年の車両形式称号規程改正でそれぞれ'''クヤ490形'''(1, 11)と'''クモヤ491形'''(11(1, 12)11)に改番され、さらに1960年には営業用にも使用されることとなって車内に設置された直流リアクトルやバッテリーを撤去し、それぞれ'''クハ490形'''と'''クモハ491形'''(番号同じ)に改称された。廃車は[[1966年]](昭和41年)2月である。
 
付随車のまま残っていた3両(402 - 404)は、1952年に[[仙石線]]に転出し、1953年の車両形式称号規程改正で'''サハニ7900形'''(7900 - 7902)に改められたが1957年2月に廃車され、うち7901と7902は翌年、[[弘南鉄道]]に譲渡された。