「広瀬氏」の版間の差分

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[[関ヶ原の戦い]]では[[上野国|上野]][[高崎城]]の留守居役を務めた。慶長14年(1609年)に徳川家康が名古屋に居城を築城する場所を決める際に、甲州士美濃守だった景房は、「ふけ田(深田)に堀を深くほり候へば、水なかへ抜け、田干あがるもの也」と言ったことにより名古屋城の場所を決定することとなった。翌年の慶長15年(1610年)2月27日より名古屋城の築城は開始された<ref>披沙揀金 : 徳川家康公逸話集</ref>。のちに養子の将義に[[家督]]を譲り、隠居料300石を与えられた<ref name=":1" />。
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== 広瀬将監正直家(大分・日田) ==
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現代の広瀬十郎兵衛家については、1891年の[[濃尾大震災]]で本巣郡において多大な被害を受けた歴史を持ち、1900年前後に一族及び親類の中に他の地へ移住する動きもあった。[[明治時代]]の広瀬十郎兵衛家当主を義重といい、親類と共に[[愛知県]][[名古屋市]][[西区 (名古屋市)|西区]]・[[中村区]]へ移り住んだとされる。広瀬兵庫助康親家の末裔と同じく、安土桃山時代に[[豊臣秀吉]]の命を受け、秀吉の家紋である「[[五三桐]]」を伝承している子孫がいると伝えられる。
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== 広瀬左将監利治家(岐阜・飛騨高山) ==
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その後、広瀬左将監利治が高崎城を築城し、さらに飛騨国広瀬城に移ったとされる。[[川中島の戦い]]の際には、広瀬山城守宗域は[[武田信玄]]に味方したと言われている。飛騨国広瀬城を本拠地とし、上記の広瀬兵庫助康親家や広瀬郷左衛門景房家とも接点があったと考えられる。
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== 出典 ==
{{DEFAULTSORT:ひろせし}}