「エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル」の版間の差分

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== 生涯 ==
皇后となることを切望し、15歳の1452年3月16日に[[ローマ]]でフリードリヒ3世との結婚式を行い<ref>瀬原、p. 316</ref>、3日後の3月19日に夫の戴冠式に臨んで正式に皇后となった。当時のポルトガルは海洋王国として栄えていたが、一方の[[ハプスブルク家]]はまだ弱小の[[領邦]]君主に過ぎず、またフリードリヒ3世は大変な倹約家であった<ref>瀬原、p. 410</ref>。結婚後にこのことを知ったエレオノーレは愕然としたが、エレオノーレの持参金によってフリードリヒ3世の経済状況は好転した。
 
息子[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン(のちの 神聖ローマ皇帝・マクシミリアン1世)]]は陰気なフリードリヒに似なかったこともあり、当時皇帝の子ではないとも言われたが、最終的に夫婦の間には5子が生まれており、その可能性は低いとされる。エレオノーレはこの息子に大いに期待を寄せたが、言語の発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかったため、大変心配した。
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== 参考文献 ==
* 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年
* テア・ライトナー 『ハプルブルクの女たち』 新書館、1996年
 
== 関連項目==