「石井茂成」の版間の差分

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[[文禄・慶長の役]]では、鍋島直茂・勝茂父子に従い、一隊の将として、[[朝鮮半島]]に遠征する。
 
帰国後、叔母である[[陽泰院]]の威光もあり、藩の中枢に抜擢され、家禄1,250石を拝領し、家老に就任。石井一門の惣領(石井寄合衆の大組頭)となる。
 
そして、[[慶長]]5年([[1600年]])頃から、一族の[[石井重次|石井孫左衛門尉重次]]らと共に、[[蓮池城 (肥前国)|蓮池城]]の城将となり、蒲田江出城番をつとめた。
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[[寛永]]10年([[1634年]])に死去した。茂成の死後、一門の惣領は、同族の[[石井孝成|石井兵庫助孝成]]が引き継いだ。
 
なお、『石井系譜』やその他の史料では、茂成は晩年に、[[鍋島直澄]]に附けられて、[[蓮池藩 ]]執政になったとされているが、蓮池藩の立藩前に茂成は病没している。
 
茂成の死後、嫡男[[石井清次|又左衛門清次]]が家督と家禄のうち900石を継ぎ、清次は、勝茂の五男[[鍋島直澄]]が[[蓮池藩]]を立てると、その付家老として従い、初代執政として、蓮池藩の基礎を築くために尽力した。残りの家禄は、佐賀本藩に仕えた次男[[石井賢顕|六郎左衛門賢顕]]、三男[[石井七郎右衛門 (佐賀藩士)|七郎右衛門]]が継いだ。