「桜花 (航空機)」の版間の差分

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マリアナ沖海戦敗北後の1944年6月19日、341空司令[[岡村基春]]大佐は[[第二航空艦隊]]司令長官[[福留繁]]中将と参謀長[[杉本丑衛]]大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333</ref>。
 
また、6月27日岡村は[[第二五二海軍航空隊|252空]]司令[[舟木忠夫]]とともに[[軍需省]][[航空兵器総局]]総務局長[[大西瀧治郎]]中将に対しても、航空特攻部隊の構想を話し、特攻に適した飛行機の開発を要望した<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫506頁、加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社63-64頁、戦友会編『海軍神雷部隊』p7、草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫51頁</ref>。桑原虎雄中将によれば「大西君は岡村大佐らの建策を支持し、[[嶋繁太郎|嶋田]]軍令部総長に、ぜひとも採用しなさいと進言しておった。が、軍令部はなかなか採用しなかった」という<ref>草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫53頁</ref>。
 
8月初旬、大田は[[東京大学|東京帝国大学]][[航空研究所]]、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には[[木村秀政]]東大講師による[[風洞実験]]用木型の設計図と[[谷一郎 (物理学者)|谷一郎]]東大教授担当の風洞実験データがついていた。[[推進装置]]は三菱開発の呂号薬が採用されていた。その出来に伊東中佐も驚いたという<ref>戦友会編『海軍神雷部隊』p7</ref>
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