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== 来歴 ==
ブリジットの父 ルイ・バルドー( ブリジットの父。[[1896年]]生まれ、[[1975年]]没。ピルーとあだ名が付けられていた)<ref>Barnett Singer, Brigitte Bardot : A Biography, McFarland & Company, 2006, 208 p. (ISBN 978-0786425150)</ref>母 アンヌ・マリー・ムセル(ブリジットの母。[[1912年]]生まれ、[[1978年]]没。トティとあだ名が付けられていた)の間に生まれる。父は「バルドー」というガス会社を経営をしていた
 
母は専業主婦。幼少期の多くを[[イタリア]]で過ごし、ファッションとダンスが好きな人物であった。
 
父のルイは、「バルドー」というガス会社を経営をしていた。[[詩人]]でもあり詩集を出版し[[アカデミー・フランセーズ]]の賞を受賞している。映画、演劇、雑誌のディレクターと親しい付き合いがあった。映画が好きで自分でも8ミリカメラで撮影していた。ルイが37歳の時にアンヌ・マリー・ムセルと結婚する。
 
[[1938年]]の[[5月5日]]にはブリジットの妹、マリー・ジャンヌが生まれた。マリー・ジャンヌは、のちに[[:fr:Mijanou Bardot|ミジャヌー・バルドー]]という芸名で、[[1956年]]から[[女優]]の活動をしていた。[[1970年]]に女優業から退き、家具の制作をしている。[[1960年代]]に[[俳優]][[パトリック・ボーショー]]と結婚し娘が一人いる。
 
マリー・ジャンヌはとても成績がよい一方、ブリジットは成績が悪くよく怒られ、両親は妹贔屓であると感じていた。どうして私は生まれてきたのだろうとよく悩んだようだ。ブリジットは右目が弱視であった<ref>Marie-Dominique Lelièvre, Brigitte Bardot - Plein la vue, Flammarion, 2012, 352 p. (ISBN 978-2-08-124624-9)</ref>。
 
7歳の時にリコと言う先生のもとでバレエを始め、初めて賞をもらう(のちにマルセル・ブルガという先生に変わる)。
 
[[1948年]] [[フランス国立高等音楽院]]に受かった。150人中10人の中に選ばれた。[[ブルターニュ地域圏]][[レンヌ]]でクリスチャン・ホワのエトワール・バレエの劇団に参加する。
 
[[1949年]] 雑誌のディレクターを務めるエレーヌ・ラザレフとブリジットの母が親友であったことから、女性向け[[ファッション]][[雑誌]] 『[[ELLE (雑誌)|Elle]]』 のフッションモデル15を15歳で務める。皆に気に入れられ雑誌のマスコットになり『[[ELLE (雑誌)|Elle]]』の表紙を務め、雑誌のマスコットになった。
 
[[映画監督]][[:en:Marc_Allégret|マルク・アレグレ]]は、雑誌を見てブリジットと会うことを求めたが、ブリジットの両親は、彼女が女優になることに反対した。祖父が彼女を信じて遣らせる事を進め、[[:en:Marc_Allégret|マルク・アレグレ]]のアシスタント監督(当時)を務めていた[[ロジェ・ヴァディム]]が手掛けた映画 『Les lauriers sont coupés』 に出演した。結果的にその映画が上映されることはなかったが、この映画のために行われたオーディションが[[ロジェ・ヴァディム]]とブリジットを結びつける恋のきっかけとなった。
 
ブリジットの両親は[[ロジェ・ヴァディム]]との交際に反対し、ブリジットは[[イギリス]]で勉強する事になる。成人を過ぎてから戻るように言われるがブリジットは拒否した。その夜、家族でショーを見に行く予定だったがブリジットだけは頭痛を理由に行かず、キッチンのガスを開いて自殺しうとした。ショーが中止になり早く戻ってきた家族は、ブリジットが意識不明になっているのを発見。意識が戻ったブリジットは[[イギリス]]に行く事を断念するよう父に懇願する。父親は18歳まで結婚しない事を条件にイギリス行きを撤回した。
 
[[1952年]][[12月21日]]、ブリジットの父は[[ロジェ・ヴァディム]]と18歳になったブリジットとの結婚を許し、二人は結婚する。
 
[[1956年]] ヴァディムの監督作品『[[素直な悪女]]』で、男達を翻弄する小悪魔を演じ、[[セックス・シンボル]]として有名になった。『素直な悪女』の撮影中、共演者のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ち、のち([[1957年]][[12月6日]])にヴァディム監督と離婚。ジャン=ルイも女優で妻のステファーヌ・オードランと別れた。このジャン=ルイとのスキャンダルで「自堕落な女」「自由気まま」と形容されるようになった。
 
[[1959年]] ジャック・シャリエと仕事し関係を持ち、子供ができる。[[1959年]][[6月20日]]、ジャック・シャリエと再婚する([[1962年]][[11月20日]]離婚)。
『素直な悪女』の撮影中、共演者のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ち、のち([[1957年]][[12月6日]])にヴァディム監督と離婚。ジャン=ルイも女優で妻のステファーヌ・オードランと別れた。このジャン=ルイとのスキャンダルで「自堕落な女」「自由気まま」と形容されるようになった。
[[file:Brigitte_Bardot_-_1965.jpg|thumb|200px|ブリジット・バルドー 1965.(1965年)]][[1966年]][[7月14日]]、ギュンター・ザックスと結婚。
 
[[歌手]]としての活動もあり、[[1967年]]には[[セルジュ・ゲンスブール]]の提供による「Harley Davidson」(「Davidson(ハーレイ・ダビッドソン「Je t'aime... moi non plus」(「[[ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ]]」、「Bonny and Clyde」(「Clyde(ボニーとクライドなどを歌った。
[[1959年]] ジャック・シャリエと仕事し関係を持ち、子供ができる。[[1959年]][[6月20日]]、ジャック・シャリエと再婚する([[1962年]][[11月20日]]離婚)。
[[file:Brigitte_Bardot_-_1965.jpg|thumb|200px|ブリジット・バルドー 1965.]][[1966年]][[7月14日]]、ギュンター・ザックスと結婚。
 
[[歌手]]としての活動もあり、[[1967年]]には[[セルジュ・ゲンスブール]]の提供による「Harley Davidson」(「ハーレイ・ダビッドソン」)、「Je t'aime... moi non plus」(「[[ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ]]」)、「Bonny and Clyde」(「ボニーとクライド」)などを歌った。
 
[[1968年]]初頭には、ゲンスブールとの連名のアルバム『[[ボニーとクライド (アルバム)|ボニーとクライド]]』も発表している。当時ギュンター・ザックスと結婚していたバルドーは、ゲンスブールと不倫の関係にあったが、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はそれを露骨に示す。
この歌はバルドーとゲンスブールの[[デュエット]]に加え、バルドーによるあえぎ声の演技を含んでいる。そのことからバルドーはこの歌のリリースを拒否、ほどなくゲンスブールとの関係も円滑でなくなり男女関係解消。[[File:Brigitte_Bardot_-_Sami_Frey_-_Saint-Tropez_-_1963.jpg|thumb|200px|ブリジット・バルドーとサミー・フレイ(右)、1963年]][[1969年]][[10月1日]]、ギュンター・サックスと離婚する。
 
[[1973年]] 、「L'Histoire très bonne et très joyeuse de Colinot trousse-chemise 『chemise(スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語)」(日本未公開)を最後に引退宣言して動物愛護活動に専念する。
 
[[1982年の音楽|1982年]] 『、[[シングルレコード]]「Toutes les bêtes sont à aimer』(aimer(全ての動物は愛す為にいる)の曲の[[シングルレコード]]をリリースする。
 
[[1992年]][[8月16日]]、ベルナー・ドルマルと結婚。
 
[[2009年]] [[動物の倫理的扱いを求める人々の会]]、通称PETAの会員で、同会の広告塔であるバルドーは、「カナダのアザラシ猟に対する抗議活動」として、カナダ産[[メイプルシロップ]]のボイコット運動を行っている。
 
[[2011年]] [[日産自動車|日産]][[日産・モコ|MOCO]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]ソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「Ça Pourrait Changer」が使われた<ref>https://www.youtube.com/watch?v=te26Bkek5FE</ref>。
 
== エピソード ==
*[[1962年]] [[屠畜場]]での家畜の殺し方に不満を持ち、[[:en:Pescetarianism|ペスコベジタリアン]](肉は一切摂らずに、魚介類、乳製品、卵は摂取するベジタリアン)になる。[[菜食主義|ベジタリアン]]になれとは言わないが一切れの苦しみと恐怖で惨く死んだ動物の肉を食べるのを控えて欲しい。中世時代より悪い !子牛の喉が開いて血まみれで肢が折れた拷問の写真を見て私は長い間泣いた。この恐ろしい血まみれの虐殺を世界で誰も告発しないのなら私がする。[[ビーフステーキ]]は恐ろしい罪のない動物を苦しませた結果の死。<ref>Brigitte Bardot, Initiales B.B., Éditions Grasset, 1996, 566 p. (ISBN 978-2246526018)</ref>
 
* [[1962年]][[1月5日]]に放送された[[テレビ番組]]「[[:fr:Cinq_colonnes_à_la_une|Cinq colonnes à la une]]」においてブリジットは、[[屠殺]]用の[[:en:Captive_bolt_pistol|ピストル]]を持って次の様に語った。食用牛を処理する際、[[イギリス]]や[[デンマーク]]では、[[:en:Captive_bolt_pistol|ピストル]]で[[頭蓋骨|脳頭蓋]]を撃ち、[[神経]]を麻痺させて苦しみを与えないようにしています。[[フランス]]では[[ナイフ]]で[[喉]]をかき切って意識があるまま3、4、5分もがき苦しみながら出血により死にます。フランスでも[[:en:Captive_bolt_pistol|ピストル]]で苦しませないやり方をとるよう求めます。<ref>https://www.youtube.com/watch?v=6nVsTBk1g0Q</ref>
* [[1964年]] 農林水産省の大臣[[:en:Edgard_Pisani|エドガー・ピザニ]]がこの問題の政令にサインし、[[1970年]]には、大臣[[エドガール・フォール]]が兎と鶏も屠畜場での殺し方を人道的にする。<ref>http://www.fondationbrigittebardot.fr/site/monde.php?Id=105</ref>この後フランスでの屠殺の法律が厳しくなる。
 
*[[1976年]]   国際動物福祉基金の組織と一緒にカナダのアザラシ狩りの現実を告発する。
*[[1977年]]  当時の大統領[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]はアザラシの毛皮の輸入を禁止した。これに伴い、カナダの政府にもこの問題に取り組むよう頼む。
*[[1978年]]  子供用にアザラシの赤ちゃんの話の本を出版する。『Noonoah le petit phoque blanc』(blanc(ヌノア 小さな白いアザラシ)』を出版する。
*[[1983年]]  [[3月28日]]、[[欧州評議会]]に受け入れられた後、[[欧州連合]]内でアザラシの仔の毛皮と、白いアザラシのオーバーコートの輸入が禁止になる。
*[[1980年]]  テレビ局[[TF1]]で、馬の屠畜場での状態を語り、[[フランス]]からそれが無くなることを依頼する。
*[[1985年]]  その時の大統領[[フランソワ・ミッテラン]]から[[レジオンドヌール勲章]]を与えられるが、ブリジットは行かず『私の[[レジオンドヌール勲章]]を苦しむ動物たちに捧げる。』と宣言する。
*[[1986年]]  ブリジット・バルドーの動物愛護施設を作る。施設のため、ブリジットは宝石、服、ギターなどを競売にかけて売った。
*[[1989年]]~[[1992年]] - 番組『S.O.S. Animaux』SAnimaux(S.O.S動物と言う番組)』に出演する。[[象牙]]の不正取引、[[動物実験]]の現状、行き過ぎた狩り、[[エキゾチックアニマル|エキゾチック]]の動物の不正取引、屠畜場の状態など取り上げた。
*[[1994年]] [[ヴァール県]]で猟師に向けてデモ行進する。
*[[1994年]] デザイナーに毛皮をもう使わないよう依頼する。
*[[1996年]] 馬の尻尾を切ることを禁止するよう依頼する。
*[[1996年]] [[イスラム教]]の[[儀式]]における羊の殺し方を告発し、[[人種差別]]とされ罰金を払わされた。
*[[2006年]] 9月28日彼女の設立した動物愛護団体が20年の記念を迎える。1973年から動物愛護の活動を書いた本『Pourquoi ?(何のために ?)を発表。
*[[2009年]] [[ジャック・シラク|シラク元大統領]]はブリジットを援助し[[欧州委員会]]で、アザラシの狩りからの製品全部販売輸入輸出通過を禁止する事を成功する。
*[[2010年]] [[6月]]に仏[[ランセル]]とのコラボレーションにより、自身の名前を冠した動物由来の素材を一切使っていないバッグを発売した。
*[[2011年]] [[東日本大震災]]に対し、他の動物保護とコラボレーションして支援を表明した。
*[[2012年]] [[リヨン]]で飼育されていた2頭の[[ゾウ]]に結核の疑いがあり、殺される予定だったが、ブリジットが政府に何度も手紙を書き、いくつか提案を渡した。政府から良い返事を貰えなかったブリジットは「動物の墓場になる国から逃げ、[[ロシア]]の国籍を依頼する」と手紙に書いた。結局その2頭のゾウは結核ではなく、[[ステファニー・ド・モナコ]]の娘がその事を伝え、助けるよう頼み、現在[[モナコ]]に元気に過ごしている。<ref>https://www.youtube.com/watch?v=Yd-FmmmwZ6s</ref>