「残留ロシア人 (南樺太)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
TempuraDON (会話 | 投稿記録)
TempuraDON (会話 | 投稿記録)
9行目:
彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。
 
やがて残留ロシア人は日本人社会に溶け込むようになった。子弟を日本人学校に通わせるなどしたため、日本人学校に通学する残留ロシア人は日本語が話せるようになった。また、日本人経営の企業や商店に勤務する者や日本人相手に商売をする者も現れた。
 
1917年に[[十月革命|ソビエト革命]]が起こり、ロシアで社会主義政権が樹立されると、[[白系ロシア人]]の中には日本統治下の南樺太に[[亡命]]して定住する者([[マルキャン・ボリシコ]]など)が出てくるようになった。1905年から南樺太に定住する残留ロシア人と1917年以降に亡命して南樺太に定住するようになった白系ロシア人は、多くの場合は日本人から同じロシア人と認識されていた。