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韓遂らは州郡を焼き払い、[[185年]]3月には[[三輔]]地方に侵入した。朝廷は[[皇甫嵩]]・[[董卓]]を討伐に派遣したが、皇甫嵩が成果を挙げられなかったため罷免し、8月に改めて[[張温 (後漢)|張温]]に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。まもなく韓遂らも美陽に着陣したという。韓遂らは張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月に董卓らに大敗し楡中へ敗走した(後漢書「董卓伝」)。翌年に張温が召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、軍勢を擁して隴西を包囲した。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、辺章が病死したため、韓遂が盟主になったとある。
 
[[187年]]、涼州[[刺史]]の耿鄙が佞吏を信用したため[[テイ (民族)|氐]]や羌が反乱を起こした。この時、韓遂がこれに続いて反乱を起こしたので、耿鄙はこれらを鎮圧しようとした。耿鄙が[[天水|漢陽]]太守の傅燮の諫めを聞き入れず、[[狄道県|狄道]]まで赴いたところで部下の寝返りによって殺されると、韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し、傅燮を殺害した(「霊帝紀」・後漢書「傅燮伝」)。また耿鄙の司馬であった[[馬騰]]も、叛逆して韓遂らと合流し、王国を盟主に推戴して三輔地方に侵攻した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。翌年、韓遂らは陳倉城を包囲したが、皇甫嵩・董卓に敗れたので、盟主の王国を追放した。王国は混乱のさなか王国が渦中で死亡した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。その後、韓遂らが権力争いによる殺し合いを始めると、彼らの軍勢も四散してしまったという(後漢書「董卓伝」)。
 
[[190年]]、朝廷の実権を握った董卓が[[長安]]への遷都を諮った時、董卓は遷都に反対する[[楊彪]]らに向かって、韓遂らから遷都させるようにとの手紙が来ていると言及している。董卓死後、[[李カク (後漢)|李{{Lang|zh|傕}}]]・[[郭シ|郭汜]]が呂布を追い出し自分たちの政権を成立させると、韓遂・馬騰は李{{Lang|zh|傕}}らに恭順の意を見せ、長安に赴いた(魏志「董卓伝」)。韓遂は鎮西将軍に任命され涼州に帰還し、馬騰も征西将軍に任命され郿に駐屯した(魏志「董卓伝」・蜀志「馬超伝」)。[[194年]]、馬騰は心変わりし、朝廷の反李{{Lang|zh|傕}}勢力や[[益州]]の[[劉焉]]と共に長安を攻めた。韓遂はそれを聞いて馬騰と李{{Lang|zh|傕}}らを和解させようとしたが、結局和解させることに失敗したため、馬騰と合流することになった。しかし劉焉らとの襲撃の計画が外部に洩れてしまったため、韓遂・馬騰は[[樊稠]]・郭汜に大敗した。この時、韓遂は陳倉まで逃走したところで樊稠に追い付かれたが、旧知であったため見逃してもらったという(後漢書「董卓伝」・魏志「董卓伝」が引く『[[九州春秋]]』)。その後、涼州に戻った韓遂は馬騰と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶなど当初は極めて親しくしていたという(「馬超伝」が引く『典略』)。しかしその後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに殺し合う有様となった(魏志「[[鍾ヨウ|鍾繇]]伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。その際、韓遂が馬騰の妻子を殺したため、和睦は一層困難なものとなった。