「西郷吉兵衛」の版間の差分

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* 長男の吉之助の諱は本来「隆永」であったが、[[王政復古]]後の時に役所に名前を申請した際に手違いが起きてしまい、吉兵衛の諱「隆盛」で登録されてしまった。しかし吉之助本人は気にする事もなく、その名を使い続けた。
* 吉兵衛は[[お由羅騒動]]で[[赤山靭負]]の[[介錯]]をしたという説があるが、これは誤りで、実際は剣豪家の加藤新平に頼んだという説もある。この誤説の原因は祖父の吉兵衛(諱は不明)が[[大山貞政]]の門人として当時の城下では名が知られていたらしく、このことによると思われる。
* 吉兵衛は[[日置家|日置島津家]]の家来の四本氏が母のため、日置島津家とその庶流赤山家の家政上の世話をする御用人だった。赤山靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとった。また、赤山の血衣を持ち帰って吉之助に見せ、涙ながらに赤山の最を語ったという。
* 「西郷隆盛年譜」によれば、[[弘化]]4年に吉兵衛は吉之助とともに、薩摩郡[[水引村|水引郷]](現在の[[薩摩川内市]])の油問屋の板垣家を訪ね、100両借金した。翌年、板垣家の息子板垣休右衛門が西郷家を訪れ、さらに100両、合計200両を借りたという。
:「詳説西郷隆盛年譜」によると、この借金はすでに売却した石高の買戻し<ref>薩摩藩では石高の売買が可能であり、これに関する法律まで存在した</ref>に使い、47石余りを超える高を買った。しかし、藩の規定で石高の購入時に追加で費用を必要とした事が後に判明。このため、当初予定の47石を下回る41石余りと借金200両しか手元に残らなかったという。なお、借金の完済は[[明治]]5年(1872年)であった。